2022年10月16日日曜日

通る所を通った修行生は布教に出たら直ぐにおかげが頂ける (2022-10-16)

 今日も和賀心学 (2022-10-16)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


私は先輩修行生の方から、師匠大坪総一郎師が、ここの修行生は布教に出たら直ぐにおかげが頂ける、即ち人が助かると仰られたと聞いていた。が、現実は少し違うのでどうしてだろうかと長年の疑問だった。研修録音を頂いていたらその答えが有った。ここで修行中に通る所を通った修行生はと前置きが有った。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 341頁)


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合掌

中原博信

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御理解 第49




信心は相縁機縁




不思議と縁をうけながら、

妙賀(信心のよろこび)にもふれずに縁を切ってゆく人、




富貴繁昌のもとにもなるおかげも、うけられるのに

おしいことである、悲しいことである




茗荷栄える蕗繁昌

(みょうがさかえるふきはんじょう)




教えと言うものが有ります、




その教えを正しく頂き、正しく伝えると言う事が

中々難しい事だと言う事を、昨日はしみじみと実感させて頂きました、




実は師匠大坪総一郎師の研修録音を昨日頂いていたのですが、

その中である事をお話しされて居られました、




その事が、私が今まで何と言いましょうかね、

先輩の修行生の方だと思いますが、




から頂いて来たものとは異なって居りました、それはその、

ここで修行した者は、布教に出たら直ぐおかげが頂けれると、




人が助かる、と言った様な事を先輩の修行生の先生から

語り伝えられていたのですけれども、




師匠がそう言う事を仰ったと、

ここで修行をしている者が布教に出たら、直ぐおかげが頂けれると、




人が助かると言う訳ですね、

ところが現実にはそうなっているとは思えない節が有りますね、




それであの御教えはどう言う事なのだろうかと、

これはそれこそ数十年来、思って来ている事なのですけれども、




その事が初めて、そのいわゆる先輩から聞いた教えが

間違いであった事がハッキリしました、




それは師匠がどう仰って居られたかと言うと、

ここで修行している沢山の人達が居られると、




その先生方が、なる程合楽理念、師匠の御教えですね、

を勉強して居られる、




中にはその勉強はするけれども、

それを行じると言う事をしない、




とにかく習い覚える、教えを習い覚えると言うのでしょうかね、

と言う先生も居られると、




中にはその教えを行じてみようと言う先生も勿論居られると、

それはどちらでも良いと、




教えを聞くだけ聞いて、勉強するだけ勉強して、

それでも良いと、また行じようと思えば行じても良いと、




とにかく一通り合楽理念をマスターすると言うのでしょうかね、

勉強したら、もういつでも布教に出て良いと、




ただここに居る間に、それこそしっかり通る所を通って、

いわゆる御教えを行じていたらと言う事でしょうね、




通る所を通った修行生は出たら直ぐにおかげを頂けれるだろう、

頂けれる、と仰って居られたのですね、




そしてここで修行をして、

また修行と言うのでしょうか、




教えを勉強して、修行は、修行自体、

行じると言う事自体は不十分であっても、




その事が分かっておれば、布教なら布教に出て、

その布教に出た現場で神様が通る所を通らせて下さると、




これは教えを行じる、そう言う事が有ると言う事でしょうね、

今その勉強をしている、覚えている事がその現場で、




通る所を通らされる時に役に立つだろう、

と言う様な事を仰って居られたのですね、




恐らく私の先輩の先生は、




その今ここで修行をしている間に、通る所を通った人は

布教に出たら直ぐにおかげが受けられる、




と言うその、通る所を通ったら、

と言うそこが落ちていた訳ですね、




そして布教に出たら、直ぐにおかげが受けられる、

と言うとこだけが残って居られたのでしょうね、




確かにそこだけを頂いた方が、人間、有難いですからね、

また希望が持てると言うのでしょうかね、




で師匠が、私はその修行生の先生に期待するのは、折角ならば

ここで修行中に通る所を通る、そう言う修行をしてもらいたいと、




ここで通る所を通ったならば、

布教に出た時にはそれこそ直ぐにでもおかげが受けられると




もし通る所を通っていないならば、布教に出た後、

通る所を通らされる様な働きになると、




その時に今勉強している教えを行じなさい、と言う事ですね、

いずれにしろ通る所を通らされた後におかげになる、




と言う事になりますよね、それが布教に出て、

後で通る所を通らされるのか、通ろうとするのか、




教会修行の間に通る所を通ってしまう、

そして布教に出たら直ぐに人が助かる様になるのか、




その辺の所が、いわゆる先輩の先生からは、

伝わって来ていなかったのですね、




なる程師匠は、師匠が本当に語られた事は、

ここだったのだなと、




また私もこうやって伝えて居りますけれども、

伝え違いをしてしまうかもしれませんので、




未だ公開は出来ませんから、ある一部の人々には

その師匠の原音と言うのでしょうか、を聞いて、




確かに伝えさせて頂きたいと思うのですけれどもね、

なる程師匠のお話が録音され残されている理由と言うものが、




必要ですね、やはり私どもが、人間が聞き覚えで、

うろ覚えで伝えようとすると、頂き違いをして、




そしてそれを恰も本当であるかの様に伝えてしまう、

またそれを聞いた者は、その事を本当として、




これは違うじゃないか、

と言った様な事にもなってしまう、




やはり師匠が、本当に伝えられた事を、

本当に正しく、正確に正しく頂き、




正確、正しく伝えて行くと言う事が大切だと言う事を、

改めて分からせられた様な次第でした、




どうでも師匠の信心を正しく、頂き違える事なく、頂き、

そしてそれこそ通る所を通らせて頂く、




その暁におかげが頂けれる、

それこそ真実の本当のおかげが頂けれると言う事になりますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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