今日も和賀心学 (2022-10-12)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
教祖様は、おかげは和賀心にありと教えて下さる。和らぐ和の心は自らの心を鎮める精進努力によって得る事が出来るが、賀ぶ賀の心は中々難しい。人はどう言う時に賀ぶのだろうか。師匠大坪総一郎師は、信心の喜びが不可能を可能にすると教えて下さる。和賀心の賀の心は信心の喜びから来るものに違いない。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 350頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第52節
信心する者は驚いてはならぬ、これから後、
どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはならぬぞ
真っ暗闇だから不安になる
信心の光がさす時安心が頂ける
神の偉大な働きを実感する時、そこに信心の喜びが湧いてくる
その喜びが不可能を可能にする
その喜びが不可能を可能にする、
不可能を可能にする程しの喜び、と言う事になりますね
私は教祖様の御教えの、
おかげは和賀心にあり、と天地書附にも有りますね、
その和らぎ賀ぶ和賀心、特にこの賀の心が苦手です、
賀ぶと言う心が中々湧いて来ないのですね、
一体賀びの心とは何だろうかと思います、
和らぐと言う心、これは割と自身の精進努力と言うのでしょうかね、
そう言うものによって得易いですね、
それこそ今朝の御理解ではありませんけれども、
少しも驚く事はならぬぞと、驚いてはならぬと、
驚かんで済む、そう言うものも、
あぁこれは驚いてはならんのだな、
と自らの心を治めると言うのでしょうかね、
そう言う事によって和の心、和らぐ心は、
何となく頂く事が出来る様に思いますね
和らぐ心、和らいで居れる心と言うのは、
自らのある意味精進によって頂く事が出来るのですけれども、
この賀の心、賀ぶと言う心は、
何か精進したからそこに賀びが頂けれると言うものではない様ですね、
どうしたらその賀ぶ心が頂けれるのか、
これが私の苦手な所です、
和らぐ心は頂き易いけれども、
賀ぶと言う心が中々湧いて来ませんね
私どもが賀ぶ、どう言う時に賀ぶのか、
それはおそらく自分の願い事が叶った時、
思いもかけない何て言いましょうかね、
欲している物が、得られなかったものが得られた時、
そう言う時にはなる程喜ぶものですね、
しかしここで言われる和らぎ賀ぶ和賀心のこの賀ぶと言う心は、
いわゆるおかげを頂いた、自分の願いが叶った、思い通りに行った、
そこに得られる喜びではない様な感じが致しますね
先ず第一に私どもが何に対して喜びを感じているのか、
そのそこを先ず自分自身の中で見極めなければならない、
ただ単に喜べばよい、美味しいものを頂いたから、そこに喜ぶ、
会いたいと思っていた人に会えた時の喜び、
それこそ久しぶりに会えた人に、会いたい人に会って喜ぶ、
そう言う喜びも有りましょうけれども、
そればかりではない、何処に賀びを見い出すのか、
と言う事ですね、何が賀びなのか、
一つにはこの御道に御縁を頂いた喜び、
と言った様な表現をされる事も有りますね、
それに対しての一つの答えが、
今日のミニ御理解に有る様に思いますね、
そこを教えて下さった、それは信心の喜びが湧いて来る、
その信心の喜びが不可能を可能にする、と師匠は仰って居られます、
信心の喜び、この和賀心による所の和らぎ賀ぶこの賀の心、
それは信心の喜びだと今日は頂きましたね、
この賀は、年賀の賀を書くと仰って居られますね、
言わばお正月に祝い賀ぶ様な、元日を祝い賀ぶ様な、
そう言う心じゃとも仰って居られますけれども、
それはどう言う時に頂けれるのか、
ある意味、さあ新しい年が始まった、
そしてその新しい年に対しての賀び、
そこには良い年になります様に、
さぁ今年は良い年、良い年になるぞと言った様な、
期待を込められた賀びと言うのでしょうかね、
何か新しい世界が開けるに違いない、
と言うそこに期待が込められた賀びだとも、
思うのですね、と言う事は、
さぁ今この難儀がある、
この難儀を通して何か新しい世界が開けて来るぞ、
この難儀によって自らの心をもう一段大きくならせて頂けれるぞ、
心を磨かせて頂けれるぞ、と言った様な、
何かしら将来に対する期待と言うのでしょうかね、
そう言うものが賀びとなって来る、
何も元日になったから、元日だけ賀ぶと言うのではない、
元日に頂く様な賀び、
それはこれから何かが起こって来るであろう、
と言う様な、未来に対しての、良い未来が来るに違いない、
と言う期待、そこに賀びを感じる、
と言う賀びも有りましょうね、
今朝頂きます、その信心の喜び、
その喜びが不可能を可能にすると言うのです、
信心の喜びこそが、私はこの和らぎ賀ぶ賀の心の内容だと、
今朝は思わせて頂きました、
ではその信心の賀びはどこから頂けれるのかと、
言う事になりますね
宗祖、教祖と言われます、
私どもは宗祖、教祖ではありません、
私どもはどちらかと言うと、
その宗祖、教祖の弟子と言う事になります、
宗祖、教祖となられる方達はやはり限られた方達でしょう、
そこに多くの弟子達が集って来る、
その弟子としての私どもが頂けれる賀びと言うのは、
どこだろうかと、その沢山有るのでしょう、色々有るのでしょう、
今朝頂きますのは、その一つは、
師匠が大切にされた事を大切にする事の賀びだと、
あぁ師匠はこの事を大切にされたのだ、
とその師匠が大切にされた事をやはり大切にする、
そしてまた師匠が、夢見られた事、
その師匠の夢をまた受け継ぐ、
師匠と同じものを追い求める、追いかけ続ける、
と言う事でもありましょうかね、
そこに頂けれる賀びだと言う事でも有りますね、
では師匠大坪総一郎師が大切にされたものは何か、
それは人々の助かり、人が助かる事、
人が真実助かると言う事であり、
また神様の御心を求める、と言う神様を大切にされた、
と私は思いますね
師匠が大切にされたものを大切にする、そこに頂けれる賀び、
これが一つの信心の賀びではないでしょうかね
ではそれを具体的に言うと、
師匠はやはり神様を、神様の御心を大切にされた、
そしてまたその現れである所の、
人が助かると言う事を、いの一番に大切にされた、
と言う事ではないでしょうかね、そのやはり人が助かる、
師匠が大切にされた所の、人が助かると言う事を、
それこそ、弟子である私どもが大切にする時に、
師匠が頂かれた賀びが、また私どもにも頂けれる、
それが信心の賀びであり、
それが不可能を可能にすると言う事になると思いますね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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