今日も和賀心学 (2022-10-26)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
目指すは和賀心、体得するは一切神愛と師匠大坪総一郎師は教えて下さる。真実の和らぎ賀ぶ和賀心は一切神愛と言う裏地無しには頂けない。ではどうしたらその一切神愛を体得出来るか。それは稽古の積み重ねしか無い。先ずは師匠の言われる事に間違いは無い、師匠が言われる事だからと信じ貫く稽古が要る。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 371頁)
ビデオ: https://youtu.be/k4w22kJ-U1M
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/10-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-10-26.mp3
合掌
中原博信
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御理解 第59節
習うたことを忘れて、もどしても、
師匠がどれだけ得をしたということはない
覚えておって出世をし、
あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ
おかげを落としては、神は喜ばぬ
おかげを受けてくれれば、
神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ
「神様のおかげで今日の私がある」
と悟った時から本当の信心が出来るのに
反対に、
かえって後ろ足で砂をかけて行くような人もある
神様のおかげで今日の私があると、
これは私どもの場合、信心させて頂く者として、
その神様のおかげで今日の私がある、とその前に、
師匠のおかげで今日の私があると思える、信じれる、確信が出来れる
そう言う信心が先ずは必要だと思いますね、
師匠大坪総一郎師は、
目指すは和賀心、体得するは一切神愛、と教えて下さいます、
さあその和らぎ賀ぶ和賀心になる事を目指す、そしてその
和賀心の裏地に一切が神愛と体得する事が要る訳ですけれども、
その一切神愛、と言うものを信じる、確信する、
そこにどうやってそこに到達するか、と言う事が有る訳ですね、
勿論自らの信心体験の中に、師匠は一切が神愛だと感得された、
喝破された訳ですけれども、
ですから勿論私どもも自らの信心体験の中に、
なる程一切が神愛だと悟ると言うのでしょうかね、
感得すると言うのでしょうかね、そう言う体験を頂くと言う事が、
最終的には要るとは思うのですけれども、
一足飛びにそこには中々至れませんね、
そのそこに至る手前の段階と言うのでしょうかね、
そう言うものとして、先ず私どもが確信しなければならない事、
それは、一切が神愛と言う事を、それは師匠が教えて下さるから、
師匠が言われる事だから、一切が神愛なのだ、
と先ずは確信すると言う事だと思いますね、
よく何かを見聞きしたり致します、
それで自分自身が見聞き出来ない事も有ります、
それでも、あの人が言われる事だから、と
あの人が言われる事だから信じて居ります、と言うのが有りますね、
それはあの人を信じて居るからです、あの人を信じて居るから、
あの人が言われる事を信じる、と言う事ですね、
ですから先ずは、その私どもが師匠の祈りの中に、
確かに居らせて頂いている、と言う体験を積む事ですね、
それは勿論成行きを大切にする中に、
なる程師匠の祈りの中に居らせて頂いている、と確信が持てる、
そしてその師匠が、一切が神愛と体得されたその師匠が、
一切が神愛と仰って居られるのだから、だから一切神愛なのだと
師匠が仰る事に間違いは無い、筈だと言う訳ですね、
師匠が一切神愛と教えて下さるから、一切神愛なのだ、と確信を持つ、
そう頂く、そして一切の事を、
そのそれが神様の神愛の現れだとして、頂いて行く、
その師匠が神愛だと仰るからこそ、神愛だと確信し、
その事も頂いて行く事が出来る、
そしてその頂いた暁には、なる程神愛だった、と確信が出来る、
自分自身がその一切神愛を体得が出来る、と言う事になりますね
ですから先ずはそれこそ、
成行きが神様の御働きだ、神様の愛の現れだ、
と言うその師匠が、一切が神愛だと教えて下さるのだから、
一切が神愛だ、と言う確信を持てる、
先ずその確信が持てる、
持つと言う事が先ず第一段階だと思いますね、
そしてその師匠が仰っている事に違いは無い筈だ、と言う
その師匠の仰る事に違いはない、と大確信を持って、
確かに師匠が仰るから、一切が神愛なのだ、
とその確信を持って突き進むと言う事ですね、
そこに初めて自らも一切が神愛だと合点がいき、
体得が出来る所へ進む事が出来る、と言う事になりますね、
一足飛びに私どもが一切神愛を体得する、
と言うのは中々難しい、
やっぱり難儀な事が起こって来たら、
どうしてこれが神愛ですか、と言いたくなりますね、
しかしそれでも、師匠がそう言われるのだから、
そして師匠が、そう何と言いましょうかね、
その祈りの中にある私なのだから、と言うその事が確信出来て、
先ずは師匠が仰るのだから、一切神愛に違いない、
とそこを貫いて行く、
と言う事が先ずは要る様に思いますね
ですから段階としては、なる程一切神愛と教えて頂く、
それを鵜呑みにすると言うのも有りましょうけれども、
鵜呑みにしていたのでは、
どうしてこれが神愛か、と思う様な事も起きて来る、
その時に、それでも師匠が神愛と教えて下さるのだから、
師匠が仰っている事に違いは無い、間違いは無い、
ならば神愛に違いない、と頂き貫いて行く、そこに初めて、
自らが、一切が神愛だと体得が出来る様になると言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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