2022年10月9日日曜日

師匠と同じ信心センスを頂かねば (2022-10-09)

 今日も和賀心学 (2022-10-09)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


師匠大坪総一郎師の提唱される合楽理念、その御教えを一般常識や私の常識で計ろうとすると頂き違いをしてしまう所が有る。それは師匠の信心センス、信心常識が土台となっての理念だからである。土の心で黙って治めると御教え頂くが、黙ってはいけない時も有る。先ずは師匠と同じ信心センスを頂かねば。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 347頁)


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合掌

中原博信

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御理解 第51




天地の間に住む人間は神の氏子

身の上に痛み病気あっては、家業できがたし




身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、

氏子身の上のこと何なりとも、実意をもって願え




「草野球に勝たせて下さい」

といったような無邪気な願い




生身の人間が、

その生身のままで幸福になろうとする時の素朴な願い




こういうおかげは、おしゃぶりを頂くようなもの、

本当の血肉になるおかげを頂かねばならない




『実意をもって願へ』

とはそういうことである




なる程草野球に勝たせて下さい、と言った様な無邪気な願い、

その願いにもおかげを頂いて行かねばなりませんけれども、




それはおしゃぶりを頂く様なものと、おしゃぶりを頂いて、

口をもぐもぐして満足しているだけでは、お乳は頂けませんからね、




口寂しいのを満足させているだけだ、と言う事になりますね、

栄養であるお乳は頂けていないと言う訳ですから、




表面だけのおかげと言う事でしょうかね、

血肉になるおかげを頂かねばならないと、仰って居られますね、




それは血肉になる、心の血になり、肉になる、

心の肥やしになるおかげと言う事でしょうかね




合楽理念と、師匠大坪総一郎師は提唱して居られます、

その師匠が提唱される合楽理念、




これもややもすると頂き違いをしてしまう事が有ります、

私も頂き違いを長年して居りました、




最近やっと分からせられました事は、私どもが、

合楽理念と師匠が仰る、そこに込められた御教えを頂こうとする時に、




私の常識で頂こうとする訳ですね、

例えば、黙って治めると言う事が有ります、




黙って治める、と言うその御教えを頂き、

それを私の中に有る常識観念でそれを頂こうとする訳です、




これは一般常識とも言えるのかもしれません、

夫々の人に常識観念が有ります、




その夫々の人の常識観念でその言葉を理解しようと致します、

ですから黙って治めなさい、黙って治める、




土の心で黙って治める、と言う御教えを頂きますと、

何かしら全ての事に土の心で黙って治めるのだと、




言う風は頂いて居りました、しかし師匠が、何と言いますかね、

目論んで居られると言うのか、




師匠がその意味して居られる所の、黙って治める、と言うのは、

何もかも無条件に黙って治めると言う事ではない様ですね、




それは師匠の常識の上に立っての、黙って治める、

と言う事なのですね、




私どもの土俵と、

師匠の土俵とが違うと言えば、そう言う事なのです、




言わば信心センスと言うものが、

師匠と私どもとはやはり違いが有る訳ですね、




しかし師匠の御教えは、

どこまでも師匠の信心センスの土俵の上に成り立つものだと、




言う事ですね、ですからある時、それこそ研修の中で、

そう言う事まで黙って治めて、どうするか、




と言われて居られる所が有りました、

言わば黙って治めてはならない場面も有る訳ですね、




ところが私などはその文字面だけを頂きますから、

土の心で黙って治める、と言うその文字面だけを頂きますと、




何でもかんでもやっぱり黙って治めなくちゃいけないのだなあ、

と思ってしまう訳ですね、ここに頂き違いが有る訳です、




あくまでも師匠大坪総一郎師の信心センスと言うのでしょうか、

信心常識と言うのでしょうか、




その上に立っての、黙って治める、

と言う事なのですね、




ですから場合によっては、

黙って治めて居られない事もやはり有りますね、




側から見ると、あれ師匠は黙って治めると言われるけれども、

黙って治めて居られないじゃないか、




と言いたくなる様な事も中には有りますね、

しかしそれは師匠の信心センスの中において、




その師匠の土俵の上においては正しい事なのです、




私どもがその師匠の、と同じ土俵に上っていないから

おかしく思えるだけなのですね




やはり合楽理念をまともに、頂き違える事なく頂く為には、

師匠と同じ土俵に上らねばなりません




師匠の信心センスと言うものを、

やはり私どもが身に着けなければなりませんね




その辺がある意味不立文字的な所が有りますから、

難しい所かもしれませんね




ただ文字面だけでは伝え難い、伝わって来ない、

師匠のセンスをやはり頂かねばならない所がやっぱり有りますね




これは何と言うのでしょうかね、

そう言うものだと言う事ですね




私どもの常識と、

師匠大坪総一郎師の常識は異なっていると言う事、




その異なっている常識の上に成り立っている合楽理念、

と言うものですから、




私どもの常識だけで判断したのでは、

間違った頂き方をしてしまう事がややもすると有ると言う事ですね




私どもの常識観念と言うものを捨て去って、

師匠の常識観念に染まってしまうと言うのでしょうかね、




師匠の常識観念の中に入り込む、

私どもが頂く、のでなければ、




真の意味においての合楽理念を頂くと言うのか、

理解すると言うのか、ことには至ら無いと言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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