2022年10月27日木曜日

神様の言い付け、即ち教えを素直に守る (2022-10-27)

 今日も和賀心学 (2022-10-27)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


今朝は起きがけに、クレデンシャルと頂いた。信心的には神様に認めて貰う様な事ではないかと思う。神様に認めて貰うには先ず第一に神様の言い付け、即ち教祖様、師匠を通して教えられる事を素直に守る事ではなかろうか。師匠はある時のお知らせに、今日よりサイダーは飲むな、ラムネにせよと頂かれ、理由を伺う事も無く行じ貫いて居られた。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 361頁)


ビデオ: https://youtu.be/O-VLgp40ERg

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/10-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-10-27.mp3


合掌

中原博信

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御理解 第56




日にちさえたてば世間が広うなってゆく

ひそかにして信心はせよ




「世間のうわさも七十五日」

と言う




じっと辛抱して行く内に自分を見極めてくる心もおこり、

相すまぬ私、至らぬ私であることもわかってくる




ひそかにして信心することが、

如何にしみじみとした有難い信味を味わい、




信心辛抱の徳を

身につける時であるかということがわかる




だまって喜んでおれば、

だまっておかげを下さる




自分を見極めると有ります、

相すまぬ私、至らぬ私と有ります、




どこに相すまない私を感じ、

どこに至らぬ私を感じるのか、と言う事ですね、




何かがあるから、何か基準が有るから、

それに対して相済まない、その基準を満たす事が出来ていない、




至らぬ私だ、と言った様な事になるのだと思いますね、

その為には、信心させて頂く私どもとして、




その基準と言うのでしょうかね、ここまでは行かねばならないとか、

こう言う事をこう言う風であらねばならない、




とか言った様なものが、

やはりその事が分からなければならないと思いますね、




今朝はクレデンシャルですか、

そう言う言葉を頂くのですけれども、




確か認められると言う様な、

認められるですかね、そう言う認めるとか、




そう言う意味合いの言葉ではないかと思うのですが、

いわゆる私どもが神様から認めてもらう、




この氏子は良い、と言った様に神様から認めてもらうには、

どうすれば良いのかと、




至らぬ私であったのでは、

神様から、それこそ神様からご覧になってですね、




神様からご覧になって、この氏子は至らないな、

と言う事であったのでは、認めてもらえませんね




信心させて頂く者として、

やはりこう言う心持ちでなければならないとか、




行動の規範と言うのでしょうか、

こう言う事をしてくれよと、




例えば人様に迷惑をかける様な事ばっかりして居る、

嘘ばっかりついて居る、また何でしょうかね、




とにかく泥棒ばっかりして居る、と言う様な事であって、

神様から認められるとは思えませんね、




先ず神様から認めてもらう為には、

やはり何と言っても、神様がこうあってくれよ、あああってくれよ、




と言われるその神様の規範と言うのでしょうかね、

神様の言い付けと言うのでしょうかね、




それをやっぱり守らせて頂かねばならない、

その私どもが信心する者として、




この御道に御縁ある者として守るべき事柄、

従うべき事柄を教えて下さったものが、




教祖様の教えであり、師匠大坪総一郎師の教えであろうと思いますね、

教えにも色々な、教えを聞いて助かる教えも有れば、




その行じる、行じて心を磨くと言う教えも有りましょう、

と同時にまた規範の様な、最低限この事は守ってくれよ、




人間として守ってくれよ、と言う様な教えも有りますね、

その教えに素直に従う、教えを素直に守ると言う事が大切ですね




中には、どうしてこう言う教えを守らねばならないのか、

その理由が分からない、




合点が行けば守るけれども、その合点がいかないから、

納得がいかないから、この教えは守れない、




と言う人も居られるでしょうけれども、

それでは信心になりませんね、




もう合点するとか、理由が分からないからとか、

そう言う事ではなく、




もうただ言われたら、素直にハイとその事に従う

その教えを守る、と言う姿勢がやはり必要な様ですね




神様、こう右に行けと仰いますけれども、

どうして右に行かねばなりませんか、




その理由が分かりませんから、行けません、

と言った様な事では、神様から認めてもらえるとは思えませんね、




神様が右に行けと言われたら、素直にハイと右に行く、

左に行けと言われたら素直にハイと左に行く、




そう言うあり方が先ず大切ですね、

その右に行けと言われたのに、中々右に行けない、




そう言う自分が有る時に、

至らぬ私、相済まぬ私と言う事になるのではないでしょうかね、




師匠がある時、神様から、もう今日から、

これからはサイダーは飲むなと、ラムネにしろとお知らせを頂いたと、




そしたら師匠はその、どうしてサイダーはいけないのですか、

どうしてラムネなら良いのですか、と疑うた事も無いと、




ただもう素直にハイと、それ以来サイダーを止められ、

ラムネに替えられた、と言う事ですね、




神様の仰せにどれ程素直にハイと言えるか、

その教えを守って行けるか、




その教えはそれこそ神様が、教祖様を通して、師匠を通して、色々

人間としてこうあるべきだと言う教えを教えて下さって有りますね、




また取次者としてこうあるべきだと、

それこそ御結界に座る、座り続けると言うのでしょうかね、




と言った様な御結界第一主義と言った様な、

色々な教えが有ります、




ですから先ずはその教祖様が、

師匠が教えられた教えを勉強させて頂く、




そしてその教えを素直に守って行く、

もし至らぬ私、相済まぬ私があるとすれば、




その教えが十分に守られていない私である、

と言うその至らなさを感じる事ではないでしょうかね




とにかく素直にその教えを守る、と言う事が、やっぱり

認めてもらうと言う上では一番大切な事ではないでしょうかね、




ああだ、こうだ理屈を付けて教えを守らないと言う事も有りますね、

とにかく素直にハイと教えを守る、




これがやっぱり認めてもらう為の

第一条件、近道だと思いますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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