2022年10月25日火曜日

信心生活とは、天地金乃神様の御神意中心の生き方 (2022-10-25)

 今日も和賀心学 (2022-10-25)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


師匠大坪総一郎師の信心生活とは、天地金乃神様の御神意中心の生き方だったと思う。物事を私どもはついつい自分の考えで右左にしてしまう。師匠はどう言う場合でも御神意を伺い、その御神意に沿うた選択をしておられた。成行きを尊ぶでもその根底に神様の御心を尊び仰せに従うと言う精神が有ってのこと。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 161頁)


ビデオ: https://youtu.be/51Zv_9bAmr0

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/10-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-10-25.mp3


合掌

中原博信

-------------------------------------------------------


御神訓




陰とひなたの心を持つなよ




目に見えるところより目に見えない所を、人が見ているところより

人が見て居ない所を大切にさせて頂くようになりましたら、




その心が有難くなり

豊かな思いが心の底から湧いてまいります




自分が助かるということや「和賀心」とは、

このような生き方からお育て頂くのではないでしょうか




目に見えない所を大切にする、

目に見える所ばかり大切にする、着飾る、




人の目を気にするからですね、

人の目を気にするから、人様の目につく所は綺麗にする、




しかし一旦人様の目が届かないと言うのか、人の目が届かない、

と言う事になったら、そこは疎かにすると言うのでしょうかね、




そう言う事は何事にも有りますね、私どもの例えば掃除をするでも、

目に見える所だけは綺麗に掃除をするけれども、




一寸裏の方の目に見えない所は、

そのままにして置くとか、




勿論洋服であったり、私どもの、

勿論これは私どもの心の問題と言う事でしょうかね、




そして人の目を気にする、人の目だけを気にするから、

そう言う事になるのでしょうね




そこに人の目ではなく、

神様の目を気にする様になったら、




その表は綺麗にしているけれども、

裏はぞんざいにしている、と言う事は出来ませんね




天地一眼に見ておるぞ、と言われるのですから、

その神様の前には隠しようが出来ません




表の見えるとこだけは見える、勿論そして裏の、

人の目には見えない所でも、神様はご覧になって居られる、




とそう言う神様の目を気にしだす、

そうすると、それこそ隠れた部分でも、目に見えない所でも、




掃除をさせて頂かねばならない、

気が済まないと言うのでしょうかね




師匠が目細い信心と言う事を教えて下さいました、

そしてその師匠大坪総一郎師がある時、




魚好きの人の、

魚食べのお話をして下さいました、




いわゆる魚が好きな人は、煮魚なら煮魚ですか、

を出されますね、勿論身の所を食べる、




そして骨もきれいに、身をそぐと言うのでしょうか、外して食べる、

そしてまた目の玉まで食べる人が居られますね、




そして骨をしゃぶる、のは身を食べた後、

骨をしゃぶると言うのは勿論ですけれども、




その身も食べ、骨もしゃぶり、目玉も食べ、

そして最後にはもう何も無くなった、




食べる所がどこもなくなったとなったら、

今度はそれにお白湯をかける、




そしてそのお白湯をかけて、そのお白湯汁と言うのでしょうかね、

それを吸うと言うのですか、飲むと言うのですか、




私の母がよくそう言う食べ残った、食べ残ったではなく、

残した所はもう無い、食べてきれいさっぱり食べてしまった、




その後のお魚にお白湯をかけて飲んでいましたから、

その事を思い出させて頂いた事でした、




魚好きはそう言う風にして、とことん食べ尽くす、

と言うのでしょうかね、と言うお話をして下さいました、




信心者もこうであらねばならない、

と言う訳ですね、




もう普通の人がこんな所はもう身も付いていないから

もう捨ててしまおうと言う様な所でも、




そこに実は味わいが有ったりする、

ですから人が捨ててしまう様な所の中にでも信心が有ると、




それは捨ててしまうと言うのか、

人が見過ごすと言う事かもしれませんね、




こんな机の裏側なんか誰も見はしないと、

人の目はそうかもしれません、




しかし神様の目は御覧になって居られる、と思えば、

その人が見えない所でも、




裏でも、裏方である程大切にさせて頂かねばならない、

神様がそれこそ天地一眼に見ておるぞと、見て下さって居られると、




結局信心と言うものは、

神様の目を気にする事だと言う事にもなりましょうかね




そしてまた師匠がどう言う信心生活をして居られたかと思います時に、

それは御神意を中心にして居られたと、




どこまでも神様の御心に沿う生き方、

と言う事に心を使って居られたと言う事ですね、




それはやはり私ども、

ついつい自分の考えで右左に決めてしまいます、




いわゆる知恵才覚とまでは行かずとも、自分の常識観念で、

これは右が良い、これは左が良いと決めてしまいます、




そう言う所を師匠の場合は、事細かく神様の御指図を仰いで居られた、

さあ御神意はどちらだろうか、と言う訳ですね




それこそこれはもうこっちにしとこう、それこそ何か買い物がある、

これは右の方を買っておこう、と私どもならしてしまいますね、




あるいはこっちの方が安いからこっちの方を買おうとか、

こっちが綺麗だからこっちを買おうとか、




そう言う風にパッと決めてしまいますね、

そう言う場合でも、恐らく師匠の場合は、




神様に、さあどちらを買わせて頂いたらよろしいでしょうかと、

お伺いをして居られたのではないでしょうかね、




いわゆる私どもが人間心でさっさと決めてしまう所を、

御神意を伺い伺い、その御神意によって決めて居られたと、




言う事ですね、つまり些細な事に至るまで、

御神意に沿うた生き方をしようとして居られた、




またなさって居られたと言う事ですね




その普通の人だったら、もうここには身は入って無いから捨てようと、

もう身も食べ尽くしたから捨てようと、




いわゆる自分勝手にしてしまう様な所でも、

師匠はそれでもそこにお白湯を注いで最後まですする様に、




神様の御神意を微に入り細に入り伺って居られた、

そして御神意に沿う生き方をして居られたと言う事でしょうね




その御神意に沿う生き方をするならば、

人の目に見えないからと言って粗末にする訳にはまいりませんね




その人の目には見えない所でも、

御神意、神様はどう仰るのだろうかと、




御神意を伺い、

その御神意に沿う生き方をして居られた、




信心生活と言うのは、

その如何に目細かく御神意に沿う生き方をさせて頂くか、




と言う事に尽きるのではないでしょうかね




どうでもその御神意に沿う、

目細い生き方をさせて頂きたいと思いますね、




しかし私ども中々神様にお伺いしたからと言って、神様が即、

師匠の様に御返事を下さると言う訳でも有りませんからね、




そこはどうさせて頂くのか、

それこそそこに成行きを御神意として頂いて行く、




と言う事になると思いますね、

師匠の祈りであるその成行きこそが御神意である、




その成行きに沿うた生き方をさせて頂く、

それが神様の御心に沿うた、適うた生き方をさせて頂く、




と言う事になりますね、




ですからさあこの成行きはどう言う神様の御神意だろうか、

どちらに選ぶ方が神様の御心に適うだろうか、




と言う私どもの、あるいは人間に適う生き方ではなく、

神様の御心に適う生き方はどちらだろうか、




とそこに焦点を当てての生活、それが信心生活、

目細い信心生活と言えるのではないでしょうかね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



0 件のコメント:

コメントを投稿