2022-10-17
今日も和賀心学 (2022-10-17)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
師匠大坪総一郎師がある時、理解申して聞かせを先にするからおかげにならんと仰っておられた。合楽理念を勉強し、より真実の事を習うとついついこれが真実ですよと教えを伝えようとする。教えが全てではない、教えは天地金乃神様とのより良い間柄を築く為の、合楽世界に入る為の一つの手立てに過ぎない。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 110頁)
ビデオ: https://youtu.be/ouJSbY5nG54
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/10-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-10-17.mp3
合掌
中原博信
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御神訓
我情我欲を放れて真の道を知れよ
我情我欲を放すとは、無心没我とは内容が違う
我情我欲を放れると、いよいよ情が強く深くなる
欲は益々、膨れてくるものである
私心を放れての欲であり情である
欲は益々膨れてくるものである、と
我情我欲を放すと欲が益々膨れて来る、
教祖様もご晩年に仰って居られますね、
私にも欲が有りますと、大欲が有りますと、
それは人を助けたいと言う大欲が有りますと、
仰って居られますね。
そのやはり私どもが、心が育つ、
そこに人を助けたい、人様が助かるお役に立たせて頂きたい、
それは取りも直さず神様のお役に立たせて頂きたい、
と言う欲が愈々募って来る、
愈々深くなって来なければならないものだと思いますね、
またそうであって初めて、心が育つと言えるのではないでしょうかね
師匠がある時、理解申して聞かせを先にするからおかげにならぬと、
何かのついでにポツリと仰ってあるのが有りました
教祖様の御教えに、願う氏子におかげを授け、
理解申して聞かせ、と有りますね、
ですから先ずは願う氏子にその願うおかげを授けて、
それから後に理解をすると言うのでしょうかね、
それがややもすると、特に師匠の御教えを沢山頂き、
その勉強と言うのでしょうか、耳学問と言うのでしょうかね、
中々身には、血肉にはなっていないけれども、
耳には付いていると言う、いわゆる耳学問をさせて頂いて居りますと、
どうしてもその教えを先に語ってしまうと言うのでしょうかね、
そう言う事をやっぱり仰られたのではないかと思いますね、
どうしても理解申して聞かせと言う事を先にしてしまう、
それはこの事が分かってもらいたい、あの事を知ってもらいたい、
伝えたい、と言う事がどうしても先に出て来ますので、
理解申して聞かせと言う事がついつい先に出て来がちですね
その理解申して聞かせを先にするからおかげになぬ、
と仰って居られますね
その信心いわゆる信仰と言うものが有ります、
その中でも神社にお参りする、お寺にお参りする、
そして手を合わせる、そのいわゆる古来の神社の信仰と、
御道の信仰との決定的な違いは、
神社には教えらしい教えが余り無いと、有るのでしょうけれども、
明確な教えらしい教えと言うものが無いと、
一方この御道には、教祖様が教えられた教えが、
それこそきちっと整理された教えが有ると、
その整理された教えが有るか無いかが、いわゆる神社での信仰と、
この御道の信仰の大きな違いだと、言う事を言われる事が有ります、
そしてこの御道には教えが有ると、
その教えが大切だと言う訳ですけれども、
ここがその教えに、なる程確かに大切なのですけれども、
教えの為の教えになってしまう事がまま有りますね
大切なのは教えを伝える事ではありませんね、
勿論大切です、しかし一番大切な事は、教えを伝えると言う事ではない、
一番大切な事は、
やはり人間と神様とのその縁を結ぶ事であり、
人間と神様とのより良い関係を築く事、
それはおかげでも有りましょうし、
またその神様との人間との間柄、より良い間柄を築く事の為に、
教えと言うものが有るのだと思いますね
その教えを、御教えを行じる事によって神様の御心も分かる、
分からせて頂く、神様との間柄がより良いものとなって行く、
その事の為の御教えであると思うのですね、
ところがややもすると教え第一と言うのでしょうかね、
理解申して聞かせを先にし、その理解申して聞かせと言う
その教えの部分に重点を置きがちになりますね、
それもこれもやっぱり私どもと神様との、それこそ拝み合い、
合楽し合う世界、合楽世界に入る為の、
その合楽世界顕現の為の一つの手立てである訳ですからね、
教えを通して、教えを行じる事によって、
神様の御心を分からせて頂き、
また私どもが人間としてあるべき姿、
あるべき心の持ちようを教えて頂く、
そして愈々目指す所は、神様と私どもとの合い楽しみ、
拝み合う世界、合楽世界に入らせて頂く事、
そこに導く為の御教えに過ぎない、
教えが目的ではないと言う事ですね、
目的は神様と私どもとのより良い間柄を築き上げると言う事が、
最大の目的と言えると思いますね
その神様と私どもとのより良い間柄があって初めて、
和らぎ賀ぶ和賀心も私どもの上に、
神様が、それこそ照り返して下さる、
と言う事ではないでしょうかね
良くその指している指を見て、指している先の月を見ない、
と言う例え話が有りますね、
師匠が指して居られる指先ばかりを見て、
その師匠が本当に見てもらいたい、
その指の先に有る目的と言うもの、
そこをついつい見落としがちですね
理解申して聞かせを先にするからおかげにならぬ、
よくよく味わってみなければならない御言葉だなと改めて思いますね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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