今日も和賀心学 (2022-12-31)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
信心をするとか、信心の稽古と言われるが具体的には何を意味するのだろう。今朝はその信心の 2つの柱とでも、要素とでも言うのだろうか、それは天地金乃神様の御働きを頂いて行くことと、自らの心を育てて行くことの 2つだと頂いた。神様の御働きを頂く事、心を育てる事、この 2つを稽古する事になる。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 191頁)
ビデオ: https://youtu.be/ZK4Kxqqta2s
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/12-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-12-31.mp3
合掌
中原博信
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御神訓
真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ
片島せんというお徳の高い先生が居られました
或る時、大きな手洗石がお供えになりました
神様にお届けをなさり
「この大きな手洗の水が一日でなくなりますような
沢山の氏子をお引き寄せ下さい」と願われました
神さまより何の受け応えもありませんでした
尚、お願いをなさると神さまより
「なぜ真心を求めて来る氏子をと願わぬか」
とおさとしがありました
神様が求め給うのは真の信心であることがわかります
残るのはお徳であり真の信心であります
同時に、毎日、子供に孫に伝わる信心を
願わねばなりません
どうぞ神さまのお役に立つ氏子にお取り立て下さい、
と繰り返し願うのです
真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ、
と有ります、
その末の末まで教え伝える信心の道、
真心の道と書いて有りますね、
その何を、どう言うものを伝えるのか、
と言う事だと思うのですね、
ここで書いてある事は、その抽象的な事ですので、
もう少し具体的に、ではどう言う道を伝えるのかと、
言う事になります
今朝は、そこの伝えるべき事は何なのかを、
教えて頂いたように思います
それは、よく信心をするとか、信心の稽古、
と言う様な表現をされますけれども、
では一体信心をすると言う事は、
どう言う事なのか、
信心の稽古とは一体何をどうする事なのか、
と言う事になります、
それで今朝頂きますのは、その信心をすると言う事の、
2つの柱と言いましょうか、要素と言いましょうか、
そう言うものを教えて頂くのですけれども、
それは一つは、神様の御働きを頂くと言う事、
神様の御働きを頂いて行くと言う事と、
もう一つは、自らの心を育てると言う事、育てて行くと言う事、
この 2つが、言わば信心の要素だと、
私どもが信心の稽古をする、それは神様の御働きを頂いて行く、
と言う稽古と、そこにまた自らの心を育てて行く、
と言うこの 2つのものを稽古して行くのだと、
言う事なのですね、
そしてまた伝えて行くべきもの、
末の末まで教え伝えるべきもの、
これがまたこの 2つだと、
信心の稽古をする、信心をすると言う事は、
神様のおかげを、言わば神様の御働きを頂いて行く、と言う事と、
自らの心を育てて行く、いわゆる本心の玉を磨くものぞや、
と言われる、その魂を磨いて行くと言うのでしょうかね、
それは結局、自らの心を育てて行くと言う事、
この 2つの事をなして行くのだと、言う事なのですね、
そこの所が抑えられておりませんと、
信心すると言う事がどう言う事なのか、はっきり致しませんね、
それこそお参りをしておれば、
信心して居るように思う、
神様の御神前に向かって手を合わせておれば、
信心をして居るように思う
勿論それは、お願いをして、神様の御働きを頂く、
おかげを頂く、と言う事で有りましょうけれども、
それだけでは片手落ちだと言うのか、
信心の本当の意味での、信心と言うわけではないと、
本当の意味においての信心、それは私どもの真心からのもの、
それはどこに真心を尽くすのか、
自らの心を育てると言う事に、
真心を尽くすと言う事ですね、
一生が修行中だと教えて下さいます、
その一生が修行だ、何を修行するのか、
自らの心を育てる修行をするのだと言う事になりますね、
中でも自らの心を愈々、大きく、大きな心を持ちたい、
その大きな心を目指して、それこそ限りなく大きな心、
それがまた神様の御心と言う事でも有りましょう、
その大きな心を持つ事を目指して精進さして頂く、
問題が起こる、問題が起こるのは、結局、
私の心が小さいからだと言う事になりますね、
難義な問題が起こる、その難義な問題を通して、
私どもの心を愈々大きく育てて行く、
愈々、美しい心を目指す、大きな心を目指す、
と言う事だと思いますね、
と同時に、精神修養的な心を育てると言う事だけでは有りませんね、
そこに、また神様の御働きが伴うて来る、
本を読んで、勉強をして、心が大きくなるわけでは有りません、
なる程大きく、大きな心を持ちたい、持たねばならないな、
と言う事は、本を読めば、なる程そうなのかと分かります、
お話を聞けば分かります、
しかし現実に即した時に、
人から一寸言われた事で、腹が立ちます、
家内から、あるいは子供から何か言われたら、
やっぱり腹を立ててしまいます、心が小さいから、
教えを聞いたり、本を読んで勉強したりするだけでは、
心は育ちませんね、
なる程こう言う心を持てば良いのか、
と言う事は分かります、
なる程こう言う心にならなければならないのか、
と言う事は分かります、
それだけですね、こう言う心を持ちたい、
こう言う心になりたいと言う事が分かっただけであって、
その分かった所で、
その心が持てた事と錯覚してしまいますね、
こう言う心になれば良い、と言う事が分かっただけであって、
実際には未だ未だそう言う心にはなっていない、
そこに、実地の稽古が要るわけですけれども、
それが、成行きと言う事でも有りますね、
私どもの身の上に起こって来る様々な問題を通して、
本なら本で、お話ならお話を聞いて勉強した、
なる程こう言う心になれば良いのだ、ならねばならないのだ、
と言うその心を愈々、本当に身に着けて行く、
それが現実世界、社会の中でと言う事で有りますね、
そしてそう言う心を育てる為の稽古をさせて下さる、
そう言うチャンスを、まぁお膳立てして下さる、
それが神様であり、神様の御働きだと言う事になりますね、
神様のそう言うお膳立てを頂かなければ、
実際に私どもの心を育てると言う事は出来ませんね、
それは、本を読んで、
大きな心になった気色で居るだけですね、
また何か問題が起こると直ぐに腹が立ちます、
悲しくなります、辛くなったり、悔しくなったり、
心が育ってないからですね、
それらの問題を通して、そこに神様の御働きを頂いて、
心を磨いて行く、育てて行くと言う稽古が、作業が要りますね、
その中には、私どもの好都合になる様な御働きも、
勿論有ります、
そう言うものも、やはり食べて行かねばならない、
飲んで行かねばならない、
出して行かねばならないわけですから、
生身の人間をもっての事ですから、
生身の人間としての事ですから、その生身の人間としてのおかげを、
神様の御働きを頂きつつ、心を育てて行くと言う、
この神様の御働きを頂く、と言う事と、
自らの心を育てて行く、
と言う事のこの 2つが柱となって、
あるいは信心の要素となって稽古をさせて頂くと、
言う事になりますね、
それを愈々、どう言う心になれば良いのか、
どう言う心になれば、
そしてまたどう言う稽古をすれば、
神様の御働きを頂けれるか、
その辺の所を師匠が、
沢山の御理解を通して教えて下さってあると思いますね、
神様の御働きを頂くと言う事、自らの心を育てると言う事、
に焦点を当てて、さぁその為にはどうすれば良いのか、
と言う事の、耳を持って、目を持って、
師匠の御理解を頂かせて頂くと言う事になりますね、
ただ漫然と頂いていたのでは、何が何やら分から無くなる、
また煩雑になってしまいますからね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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