今日も和賀心学 (2022-12-26)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
このお道は天地金乃神様が教祖生神金光大神様に、世の難儀な氏子を取次ぎ助けてくれとお頼みになられた所から取次ぎの道が始まったと思う。が、今朝頂くのは、教祖様の心を育て神に成長させる事の為に取次ぎをさせたと。あたかも取次者の力によって氏子におかげが授けられたかの如くに見せかけられたと。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 460頁)
ビデオ: https://youtu.be/ChLYuu62CtM
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/12-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-12-26.mp3
合掌
中原博信
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御理解 第89節
此方の道は傘一本で開くことができる
無明の闇に光明がいる
さまざまな迷いに苦しみに、光明世界への導きがいる
導くものに光がいる
「此の方の道は光一つで開くことが出来る」とも言えるわけです
導く者に光が要ると、
神様はその導く者を造ろうとして居られる、
育てようとして居られる、
そしてその導く者に光を与えようとして居られる、
その導く者が次から次に出来る事によって、それこそ
人類が本当の意味においての助かりの世界に入る事が出来る、
と言う事になるのだと思いますね、
この御道には取次者と言うのが有りますね、
居られますと言うのでしょうか、
その取次者、氏子の願いを神様に取次ぎ、
また神様の願いを氏子に取次ぐ、と言われるわけですけれども、
その師匠大坪総一郎師は、
やはり取次者の中の取次者だと、私は思いますね
その師匠の信心姿勢、師匠の許で修行をさせて頂き、
見習うべき事は、頂かねばならない事は何か、
それは先ず第一に、
師匠の修行精神だと思いますね、
一見師匠が、それこそ様々な御教えをして下さいます、
して下さいました、
ですからその師匠が教えて下さる御教えを勉強し、
また体に身に着け、そして心を練ると言うのでしょうかね、
その師匠の御教えを頂き、現すと言う様な事が
大切な事であるように思いますけれども、
勿論それも有るでしょうけれども、その言葉にはならない、
端々には仰って居られるのかもしれませんけれどもね、
その師匠のあられ方と言うのでしょうか、
そのそれはやはり師匠の修行精神、
それは、人が助かりさえすれば、と言うその精神、
そこを神習わねばならない、と言うよりか、
そう言う心が私どもの中にも育つ様な
おかげを頂かねばならないと思うのですね、
神様が、取次者に願われるもの、
取次者を造られたと言うのでしょうかね、
その取次ぎ、助けてやってくれと、教祖様に頼まれた、
そこから始まって居るわけでしょうけれども、
それならば、取次者が神様にお願いする、
そしたら氏子の願いが全部叶うかと言うと、
そう言うわけでは有りませんね、
取次者の願う通りに事が運ぶと言う事でも有りません、
ある意味、もう既にその氏子 A さんの願い事がどうなるかは、
神様の胸三寸と言うのでしょうかね、
そしてあたかもその取次者の力によって、
氏子 A さんがおかげを受けられるようになった、かのように、
何と言いましょうかね、
ある意味お芝居かもしれませんね、神様のお芝居かもしれません、
それは、取次者によって、
氏子 A さんが助けられた、助かられた、
と言う様な、ある意味、
お芝居を神様が作って居られる様な感じが致しますね、
その取次者が取り次ごうが、取り次ぐまいが、
氏子 A さんがおかげを頂くと言う事は、
あるいは頂かないと言う事は、
神様の胸三寸にもう入って居る事なのですね、
取次者が願ったから、取次者がそれこそお願いしたから、
氏子 A さんがおかげを頂いたように見えますけれども、
実はそうではない、
それは取次者が願おうが、願うまいが、あまり関係は無い、
しかし何故そう取次者に願わせて、
氏子 A さんにおかげを授けようとなさるのか、
それは取次者を、の心を育てたいからだと、
神様の狙いは取次者の心を育てる事に有ると、
そしてあたかも取次者が、
取り次いだかのように振る舞われ、
その取次者の、取次者の取次ぎによって、
氏子がおかげを頂いたかのように神様が振る舞われる、
そこで発奮するのは取次者ですね、
取次者が心を育てる、自らの心を育てる事によって、
それこそ、人が助かりさえすれば、
と言う様な神心が育つ事によって、
人が助かる、ように仕向けてある、
と言う様な事でしょうかね、
ですからある意味において、その取次者と言うのは、
神様から特別に愛されて居ると言う事になりますね、
その自覚が要ると思います、
そしてそのあたかもその取次ぎによって、
人が助かって居るかの如く見せる、
それは、その取次者の心を、
神心を愈々育てる事の為だと、言うのですね、
ですから取次者の不行状によって、
例えば氏子 A さんがおかげを落とす、
そんな事があって良いはずは有りませんね、
神様も、お前の責任でこの氏子がおかげを落としたぞ、
と言ったのでは、氏子 A さんがたまりませんね、
ですからそう言う事はなさらないけれども、
あたかもその様には見せられる事が有る、
それは、取次者の心を愈々育てる事の為ですね、
取次者を、の心を育てて、それこそ神心を育てるため、
愈々、神に成したいが為、と言う事でしょうね、
ある意味その取次者はサンプルかもしれませんね、
いわゆる一般氏子よりか、神様に少し近い所に居るのでしょう、
少し神様から目をかけられて居ると言う事でしょう、
そしてその取次者が、愈々神に成る、その神に成る姿を見て、
一般氏子の方達もまた、神に成る事への精進を、
その影響力を持つようにと言うのが、
神様の願いではないかと思いますね、
神様の先ず第一の狙いは、
取次ぐ者の心を育てる事だと言う事ですね、
その為に、あたかも取次者の力によって、
おかげが授けられたかの如く振る舞われると言う事になりますね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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