今日も和賀心学 (2022-12-28)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
人は助かりを求めて信心をする。ところがその助かりには少なくとも 2つの段階がある。一つは、痛い、その痛いのが治って有難いと言う助かり様。次の段階は、痛い、けれども有難いと言う助かり様。後者の助かりは、地獄の釜の底を踏み抜いた向こうに有る。要は神様の御働きを頂いていると感じる助かり。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 189頁)
ビデオ: https://youtu.be/i2O1wW1RNgY
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/12-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-12-28.mp3
合掌
中原博信
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御神訓
神は声もなし 形も見えず 疑わば限りなし
恐るべし 疑いを去れよ
おかげ(御利益)をうけて信ずる
と言うのは本当でない
『信心は本心の玉を研くもの、信心は日日の改りが第一』
として、教えの根底となし、
日常の信心生活から生まれてくるおかげを受けて、
神への絶対信がついてくる
神を信ずる者は多いが
神から信じられる者は少ない
神に信じられて生まれてくる信こそ、
絶対信である
信心、と言うものが有ります、
それこそ何の為に信心をするのか、
と言う事がよく問われる事が有ります、
何故信心をするのか、
それはやはりおかげを受けたいから、
特別な御働きを頂きたい、
自分の願いを叶えてもらいたいから、
病気を治してもらいたい、
人間関係の問題を直してもらいたい、
嫁姑の問題であったり、大学受験、あるいは就職、
様々な願い事、それが成就する事を神様に願う、
そしてその神様から治してもらう、
あるいはその願い事を叶えてもらう、
その為に信心をする、と言うのが、
やっぱり私どもの根本的なものではないでしょうかね、
その信心をしても、私どもの願い事が叶わない、
あるいは病気が益々酷くなった、
人間、信心したおかげで人間関係が悪くなった、と言う様な事では、
何の為に信心して居るのか分かりませんからね、
やっぱり信心をさせて頂き、私どもが助かると言う事、
その助かる事の為に信心をさせて頂く、と言う事だと思いますね、
但し、その助かると言う意味合いが、
内容がまた変わって来ると言う事も確かでは有りますね
そしてその助かりの内容が変わって来なければならない、
と言う事も有りますね、
最初の信心を始める、その頃の助かりはどこに感じるか、
それはただ願い事が叶う、右とね願えば右となり、
左と願えば左となる、いわゆるご利益ですね
そこに助かりを感じる、
自分の願い事が叶う事に、助かりを感じる、
と言う助かり方ですね、
そしてそれが段々、信心の奥処と言うのでしょうか、
より真実の事が分かって来ると、
右に願って右になったから助かる
と言うのではない、
右と願っても、左となった時に、言わば
自分の願い事が叶わないとなった時にでも助かっておれる、
例えば痛い、その痛いが治ったから有難い
と言うその有難さが、その助かり様から、
痛い、けれども有難いと言う、
痛い中にも助かりが得られる、
言わば自分の願い事にならない、事が運ばない、
そう言う中でも助かっておれる心が頂けて来るようになる、
そう言う信心体験が要るのではないでしょうかね
今までのいわゆる御ヒレイを頂いておられる先生方の
お話を頂いておりますと、
いわゆる難儀をした、その病気であったり、
金銭の問題であったり、
そのいわゆる難儀な事が、
この御道によっておかげを頂いた
それこそ命拾いをした、九死に一生のおかげを頂いた、
そこに助かりを感じるわけですね、
それこそ助かりも、何と言いましょうかね、
前代未聞の助かりと言う様な、強烈な助かりの体験が有るわけです、
その強烈な助かりの体験を人様にも伝えたい、
人様にも助かってもらいたい、と言う思いが芽生えて来る、
それで病気をした人の先生の所では、病気の人が、
人間関係で苦労した先生の所では、その人間関係の問題の人が、
よく助かる様になる、
と言うのは伺い知れますね、
同病相憐れむでは有りませんけれども、
同じ様な難儀をして居る人達を、やはり助けたい、
それは、自分が助かったと言う強烈な体験が有るからですね、
それに対して、教えによって助けられた、
例えば、痛いけれども有難い、と言う助かり方、
これは中々その強烈な体験とはなりにくい所が有る様ですね、
じわじわと、自分の中に芽生えて来る助かりの体験、
と言った様なものではないでしょうかね、
ですから、それを伝えよう、よし人にも、
それこそ今痛いと言って居る人に、
いや、痛い、それでも有難いんですよ、
と言う事を積極的に伝えて行きたい、
痛い、けれども有難い、と言う助かりを頂いてもらいたい、
と言うのは、中々難しい所が有りますね、
実際、痛いけれども有難いと言う助かり方を頂くと言う事は、
言わば、師匠が仰って居られました、
地獄の釜の底を踏み抜いた向こうに合楽世界が有る、と言う様な、
その地獄の釜の底を踏み抜いた向こうに有る、真の助かり、
と言う事になりますからね、
大変難しいと言えば、難しいのですね、
しかし、どうでも世の人々が真実助かる、と言う事、
人類が真に助かる、と言う事は、どうでも、
その地獄の釜の底を踏み抜いた向こうに有る助かりの世界を体験し、
そしてまた味わってもらわねばならないのでは有りますけれどもね、
その助かりの手立ての一つが、
師匠が教えて下さる土の心ですね、
一切を土の心で受ける、成行きを土の心で受ける、
しかし中々その土の心で受け切る事が出来ない、
何故土の心になれないのか、今朝はその事を、
それは心が小さいからだと、もう一回り心が大きくなる、
心を愈々大きくしようとすれば、
土の心で受ける事も出来るようになる、
これは人の助かりにも繋がる事だと思いますね、
土の心で受ける事が出来ない、それは私の心が小さいからだと、
その難儀を受ける事が出来ない、
それは結局私の心が小さいからだと言う事になりますね、
心を愈々大きくしよう、大きな心を持とう、
とそこに焦点を置いた時に初めて、土の心で頂けれるようになる
またその難儀と思うていた事をも、
解消する事が出来るようになる、
結局私どもの心が小さいから、難儀をして居る、
と言う事でも有りましょうね、
愈々心を大きくする事だ、
心が大きくなれば、問題は問題で無くなる、と言う事ですね、
私どもが、愈々大きな心を目指す所に、
助かりの世界がまた一つ近くなる、と言う事でも有りますね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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