今日も和賀心学 (2022-12-01)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
教祖様は、神の差し向けと表現され、師匠大坪総一郎師は、御事柄あるいは成行きと表現された。その言わんとされる所は同じ様に思う。ただその言葉に対するイメージが自分にピッタリ来る表現をなさったのだと思う。私は、神様の御働きと言う言葉を使っても良いのではないかと思う。師匠は、徹する事だと。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 359頁)
ビデオ: https://youtu.be/zOHaRFGYiEc
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/12-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-12-01.mp3
合掌
中原博信
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御理解 第55節
賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、
年をとっては頼んでくれぬ
信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ
信心をすれば一年一年ありがとうなってくる
おかげおかげの信心では
有難い心は育たない
本心の玉を研くことが信心だと悟って信心すれば、
自然と有難くもなれ、信心の位もついてくる
おかげおかげの信心、と師匠は、
大坪総一郎師は表現して居られます
おかげと言いますね、ご利益とも言われますけれども、
そのおかげもいわゆる認識の仕方と言うのでしょうかね、
それによって色々有りますね、
自分にとって都合の良いものをおかげと頂く、
また都合の悪い事が起こって来たりすると、
おかげを落とした、と言う表現をしたり致しますね
自分の思い通りにならないと、
おかげを落とした、とか言う表現を致しますね
このおかげと言うものが、何を意味しておるのか、
その指し示す所と言うのでしょうか、
おかげと聞いて、私どもが何をイメージするか、
それが一つ大切だと思うのですね、
私がそのおかげと聞いてイメージするのは、
昨日もお話し申しましたように、
そのある一時点を輪切りにして、その事をおかげだとか、
おかげではないと言った様な表現のイメージなのですね、
言わば神様の御働きの全体、それこそ過去、現在、未来に至る
神様の御働きの全体を指し示した言葉ではないように思うのですね、
ですから、神様の言わば恩、大恩と言うのでしょうか、
そう言う事に目を向けた時に、おかげと言う表現では表わし得ない、
のですね、例えば教祖様は、
神様の差し向けと表現されましたね、
また師匠はそれこそ、神様の御事柄だと、
そして成行きとも表現されましたね、
この成行きと言う言葉が、師匠がイメージされる所の成行きと、
一般の人達がイメージされる所の成行きとは、
その言葉の響きが少し違うように思いますね、
師匠にとっては、その私どもの身の上に起きて来る事柄、
言わばそれは神様が、それこそ教祖様のお言葉で言えば、
お差し向けとして、その神様の、
師匠の言葉では御事柄となるわけですね、
神様の御働きと言うわけです、
それがそれを、
成行きと表現されたわけですね、
成行きと言う一言で表す事の方が、
師匠にとってはピタッと来られたのですね、
師匠が抱かれるイメージ、それが成行きと言う言葉になった
また、教祖様の場合は、それを差し向けと言う表現をされた
いずれもその、誰にでもピッタリ来るかと言うと、
それが一寸難しい所が有りますね
その言葉に持つイメージが、人によって少しずつ違ってきますからね、
私の場合も、どう表現したら良いのだろうかと思いますけれども、
例えばアメリカの人に、成行きだと言っても、
それがピンと来られるかどうか分かりませんね
無理やり今は、成行きを成行きとして語っておりますけれども、
おそらく分かられないだろうと思うのですね、
一体何だと、ただそれが、
いわゆる成行きと言う言葉が浸透して、
その本来の師匠大坪総一郎師がイメージされる所のそれが、
成行きと言う言葉でイメージされるようになったら、
これはまたそれで有難い事、占めたものですけれども、
中々そこに至るまでには、それこそ何百年かかるか分かりませんね
これならば、アメリカの人にも、日本の人にも、
も少し分かり易くなるのではないか、と思いましたのが、
やはり神様の御働きと言う事ですね、御働きと言う事です、
神様の御働き、と言う言葉で表現すれば、
それこそおかげも勿論入りましょうね、そのおかげの前後の働き、
時間、あるいは空間もその中に含まれる様な感じが致しますね、
でまた師匠も、成行きは神の働き、
と表現して居られます、
言わば、神様の御働きを、その成行きと言う言葉で、
代弁されておったとも言えるわけですね
教祖様も然りです、神の差し向けと言う言葉で、
神様の御働きを代弁して居られた、
ならばもう代弁するのは止めてしまって、神の働き、
とダイレクトに表現した、伝えた方が良いのではなかろうかと、
思うのですね、おかげも、それはおかげだと言うより、
それは神様の御働きだ、と
では、おかげと言う言葉が持つイメージは、
自分にとって都合の良い事と言う感じが致しますね、
ところが神様の御働きと言うものには、
自分にとって都合の良い事、と言う意味だけではなく、
都合の悪い事も含まれますね、
ですから、一切合切を神様の御働きと表現し、
それがどう言う御心の現れの御働きであるのか、そこはまた
その都度都度に求めて行かねばならないと思うのですけれどもね
おかげと言う表現が、
人間側からの表現である、
それが神の働きと言う事になると、
神様側からの表現である、と言う様な感じがするのですね
その中間を捉えたのが成行きであり、
差し向けと言う表現ではなかろうかと思いますけれども、
これからはそれこそ、神様の御働き、として表現して行く、
そう言うあり方にならせて頂きたいと思いますね、
そしてその師匠が仰って居られますのは、
その事に言わば徹する事だと、言う事なのですね、
例えば、これまでにも神様の愛を説いて来た人達は居られる、
それこそプラス思考の様な事を言う人達も居られる、
ところが出来たり、出来なかったり、これは神の働きだ、
これは人間の働きだ、と言う様な事では御神徳には繋がらない、
神様の御信用には繋がらない、
そこに大切なもの、それは徹する事だと、
それこそ、あれは神愛であったり、こっちは神愛でなかったり、
と言う世界に住んで居ったのではダメなのですね、
師匠が仰る、一切が神愛、一切が神様の御働き、
とその一切の事に徹し貫かなければならない、
その徹し貫いて初めて、
神様の御信用も頂けれる
この事は、神様の御働きと頂けれるけれども、
あの事はあの人がああ言ったのだ、この人がこう言ったのだ、
と言うのではない、その後ろと言うのでしょうかね、
その向こうに見神を求め給う、と言うのか、
神様がバックに居られる、神様がその人を操って居られる、と
神様の御働きと頂く、その事に徹する事が大切だと言う事ですね、
そして、あの人から親切にしてもらった、
あの人に御礼を言う、ばかりではない、
あの人を通して神様が親切をして下さったのだ、
親切をして下さったのは、あの人ではない、
その向こうに居られる神様が親切をして下さったのだ、
と神様への御礼の心が湧いて来る、
そう言う信心をさせて頂かねばなりませんね、
それは勿論、親切な事ばかりではない、
悪口を言われる、それはあの人が悪口を言ったのではない、
その神様が、悪口を言わせなさったのだ、
さあそれはどう言う事訳だろうか、と
求めて行く事が大切だと言う事ですね、
そしてその神様の御働きに御礼が申せれる様な心を
育てさせて頂かねばなりませんね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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