2022年12月11日日曜日

有難いと感じる心から更に、その御礼心を育てたい (2022-12-11)

 今日も和賀心学 (2022-12-11)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


今朝は、お礼と言うことを頂く。信心は有難くなる稽古と言われる。しかしそれがただ有難くなるだけではなく、そこに御礼の心が育って来なければならないと言うこと。師匠大坪総一郎師はある時「礼」と頂かれ、お礼の心が次のおかげを釣り上げると。天地金乃神様への御礼の心、その御礼心を育てたい。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 139頁)


ビデオ: https://youtu.be/7gXbtCujius

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/12-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-12-11.mp3


合掌

中原博信

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御神訓




打ち向かう者には負けて、時節に任せよ




実力なしには勝てぬ




負けることがわかっていて討ち向かうほどあわれなことはない

返り討ちにあうは必定だからである




負けて勝つということは、

時節到来するまでにエネルギーをたくわえて待つのである




只待っておればよいというのではない




時節を待つと有ります、これは私ども氏子が時節を待つ、

おかげの時節を待つと言うばかりではなく、




神様の方もその時節を待って居られる、

何の時節を待って居られるか、




氏子の心が育つ事を待って居られる、

と言う事でしょうね




そのでは神様が待って居られる氏子の心の育ちよう、

と言うのでしょうかね、




こう言う心が育たなければならない、と言うのですけれども、

これは神様の方から強要するわけにはいかない




こう言うものだと言う事は、語る事は出来ても、

その事は強要する事は出来ない、




言わばその心が、氏子の心の中に育つのを待つしかない、

待たねばならないわけですね、神様の方からすれば、




と言うその神様が待って居られる心の一つに、

それは今朝は、御礼と言う事を頂きました、御礼の心ですね、




信心は有難くなる稽古、と教えて下さいます、

ですから有難くなろうと致します、




そしてまた師匠は、大坪総一郎師は、日本一有難い私になろう、

とそこに目標を定めて信心の稽古を続けられました、




そして私どもの中に、有難いと言う心は

なる程頂けれるようになるかもしれません、




そしてまた和らぎ賀ぶ和賀心を求めて、信心の稽古をさせて頂き、

和賀心が身に着く、身に着いたと致しましょうか、




そして有難いと言う心が生まれて来る、

さあそこからなのですね、その有難いと言う心が芽生えて来たら、




そしてその次に、そのもう一つ向こうに有る御礼の心が

育って来なければならないのですけれども、




有難い、自分自身が有難いと言うだけで、

神様への御礼の心が育たない場合が有りますね、




別に神様がその御礼を求めて居られるわけではないけれども、

やはり氏子からの御礼が有ると言う事は、




神様にとって、

神様にとって喜びですね、有難い事ですね、




ある時、師匠が

礼という字を、漢字を頂かれました、




示す偏にこうなんですか、

逆立ちの釣り針りの様な格好をしたものを書きますね、




ですからその有難いと言う心を示すと言うのでしょうか、

御礼心を示と言うのでしょうか、




その御礼を言うその心に、言わば次のおかげを引っかける

と言いましょうかね、釣り上げると言いましょうかね、




そう言う素が有ると、その御礼の心は次のおかげを釣り上げるよ、

と言った様な御理解が有りますね




その、またの御教えにも、その神様から教えられた事、

または頂いたおかげと言うのでしょうかね、




それを違わぬように人に伝えて、

真の信心をさせるのが神への御礼ぞ、と有りますね、




真の信心をさせるのが神への御礼だと、




その神様は別に金品をお供えしてくれとか、あれをしてくれとか、

これをしてくれとかは思って居られないわけですね、




神様への御礼は、それこそ習うた事を違わぬように人に伝えて、

その人がまた真の信心をする、させる、それが神様への御礼だと、




言わば真の信心を伝えて行くと言う事が、

神様への御礼だと、




神様が求めて居られる事、と言うのか、

願って居られる事であるわけですね




その真の信心を伝える事によって、

そしてまたその相手の方がまたより一層に助かって行く、




真の助かりを得る事が出来るわけですからね、

神様の願いがどこまでも人が助かる事である事が分かりますね、




その為には私どもの中に、ただ自分がおかげを頂けば、それで良い、

と自分の所で頂いたおかげを止めるのではなく、




それこそ御礼の為の精進、とも言われますように、

その神様からおかげを頂いたその有難い心をもって、




御礼を表す、御礼の真を表すとも言われますね

その御礼を言う、あるいは表す心持ちが育って来なければならない、




ただ有難いで終わったのでは、何と言いましょうかね、

残念だと言う事ですね、




私どもの中に有難いと言う心が生まれる、

そしてそこから更に、




その有難いおかけを頂いた事に、

御礼を形に表すと言うのでしょうかね、




御礼の真心を表すと言うのでしょうかね、

それはその人夫々によって色々有るのでしょうけれども、




とにかくその有難い事への、

神様へ、




神様からおかげを頂いた事への御礼の心が、

また育って来なければならない、




そしてその御礼の心をもっての精進、

それこそ朝参りをするでも、教えを行じるでも、




おかげを頂きたいから朝参りをする、

おかげを頂きたいから教えを行じる、と言う所から、




その神様への御礼心を持って、

御礼の為に朝参りをする、




それこそ御神前に向かうでも、お願い事が有るから向かう、

勿論それも有りましょう、




更に、その御礼の心を神様に申し上げる為に、

御礼の為に御神前に向かう、と言う向かい方ですね、




土の心で黙って治める、

おかげを頂きたいから黙って治める、と言う所から、




御礼の心の表れとして、

その御礼の為の精進として黙って治める、




それこそ自らの御礼の表す、それが

教えを行じると言う形となって表れる、と言う事も有難い事ですね、




私どもの心の中に、その御礼と言う、礼を言う心、

その御礼を、何かしらおかげを頂いて、




神様に御礼がしたいと言った様な、

その御礼の心が育つ事がまた大切だと言う事ですね、




これは、御礼をしなさいと、

強要するわけには参りません、




またそう、御礼をしなさいと言って、強要をして

御礼をされた様な御礼では本当の御礼では有りませんからね、




自ずから御礼の心が湧いて来る、何かしら御礼をせずには居れない、

そう言う心が湧いて来る様な、心が育つ、




その時節を

神様は待って居られると言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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