2022年12月7日水曜日

天地金乃神様の願いは氏子の神心を育てる事 (2022-12-07)

 今日も和賀心学 (2022-12-07)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


天地金乃神様とのご縁が出来るキッカケは、多くの場合病気災難から助けて貰う、或いは願い事を叶えて貰う事だと思う。しかもそれは自分の事であったり家族の事の場合が多いと思う。神様の願いは氏子の心を育てる事。それは天地日月の心であり、和賀心を育てる事。中でも人の助かりを祈る神心を育てる事。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 244頁)


ビデオ: https://youtu.be/V-mdpSE4dBA

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/12-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-12-07.mp3


合掌

中原博信

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御理解 第17節




神の綱が切れたというが、神は切らぬ

氏子から切るな




切れたとまではゆかぬでも、切れかかって居る人が

沢山いるのではなかろうか、不平不足はおかげが切れる




切れかかっている人、

それは信心が切れかかっている、




信心が切れかかっていると言うのは、

神様との繋がりが切れかかっていると言うのでしょうかね、




その私どもが神様との関わり合いが有る、

どう言う事で神様との関わり合いが出来るか、




多くの人達が信心を始めるそのきっかけとなるものは、

やはり病気災難の時の神頼みと言うのでしょうかね、




病気災難の時に神様から助けてもらう、

それが自分自身の事であったり、自分の家族の事であったり、




そう言う近しい人達のいわゆる困った事、それを助けてもらう、

と言うのが多くの人達がこの御道と言うのでしょうかね、




神様にご縁を頂くきっかけになるのではないでしょうかね、

そしてそこ止まりではいけない、




本当の信心の目的、神様の願いとされる所は、

そう言ういわゆる困った事をきっかけとして、神様とのご縁を作り、




そしてそこから愈々心を育ててもらいたい、

人間としての心を育ててもらいたい、と言うのが神様の願いですね、




その私どもが神様の、心を育ててもらいたいと言うその願いに、

触れない、神様の御心が分からない、




だから、切れかかってしまうわけですね、

自分の、あるいは家族の者達の、何と言いましょうかね、




より良い生活と言うのでしょうかね、おかげと言うのでしょうか、

それを求めるのみに止まってしまうから、




それこそある程度の良い生活が出来るようになると、

それで神様との縁がもう必要は無くなったと、




言うようになるわけでしょうね、




ところが本当の信心と言うのか、神様の願いと言うのは、

本当はそこからだと言う事ですね、




そして私どもが、人間が心を育てる事に目覚めて、

心を育ててくれるようになる、




その為には、ただ手を合わせてお願いして、おかげを頂く、

と言うだけでは神様の御心が分かりませんね、




そこに御理解を頂く、言わば師匠大坪総一郎師が教えて下さる、

その御理解を頂く事によって初めて神様の御心が分かる、




御心に触れさせて頂く事が出来るようになる、




そして天の心、地の心、日月の心を育てようと

信心の稽古をするわけですね、




またその天地日月の心を身に着けようと、

育てようとする事によって和らぎ賀ぶ和賀心が育って来るわけですね、




これは和賀心が先なのか、天地日月の心が先なのか、

よく分かりませんけれども、




その天地日月の心を身に着ける事によって、和賀心が育って行く、

また和賀心を育てようとする所に、




天地日月の心を身に着けずには居れぬ様な心も育って来る

のだと思いますね、




ところがこの和賀心が育つ、

和賀心を目的として信心をすると言う所はまだ十分ではない、




それは、自分の助かりを願っての事だからですね、

和らぎ賀ぶ和賀心、それを頂けばどうなるか、




自分自身が助かる事が出来る、自分自身がおかげを頂く事が出来る、

と言うだけでは自己中心の信心と余り変わらない、五十歩百歩ですね




もう一つの神様の願いは、

それこそ私どもの中に有る神心が育つ事だと、




その神心が育つと言う事はどう言う事か、




それは自分の助かりに止まらずに、

人様が助かられる事を祈る、願う心が育つ事だと、




人が助かる為の神様のお役に立たせて頂きたい、と言う様な

言わば私どもの中に有る神心が育って行かなければならない、




自分自身がおかげを頂く為に、助かる為に、

おかげは和賀心にありと言われるから、




その自分自身がおかげを頂く為に和らぎ賀ぶ和賀心になろうとする、

と言う信心からもう一歩先に進んで、




その神心が、人が助かる事の為のお役に立たせて頂きたい、

あるいは人様の幸せを、それこそ自らが助かると言う事以上に




自らを犠牲にしてでも、人が助かる事を祈れる様な、

そう言う心が育って来なければならない、と言う事なのですね、




実際の所、和らぎ賀ぶ和賀心に致しましても、

自らの助かりを願うと言う段階では本当の和賀心は頂けませんね、




人の助かりを願うその神心が育って初めて、

本当の意味での和らぎ賀ぶ和賀心、その賀ぶ心も頂けれる訳ですね、




和らぐ心と言うのは、

自分の助かりを願うだけでも頂けれるのかもしれませんけれども、




本当の意味においての賀びの心と言うのは、




人の助かりを願えれるようになって初めて、

頂けれるのではないでしょうかね、




そしてその和賀心が本当に頂けれるようになったら、




そのおかげを欲しいと言う思いも、

自らの為におかげを求める心も、これは無くなるものですね




おかげは和賀心にあり、と言われるから、

その和賀心を育てようとする、




そして和賀心が育った時には、

おかげは要らない世界に心が育っていると言う事ではありますね、




そこから頂けれるおかげ、それは、自分が助かる為のおかげではない、

人様が助かる為のおかげを頂きたい、




そしてその人様が助かって下さる、

人様がおかげを頂いて下さる所に頂けれる喜び、




人の助かりを喜ぶ賀びと言うのが、

また頂けれるようになるのではないでしょうかね、




神様の願いは、そう言う私どもの人間の中に、神様の子としての

神心が育って行く事を願って居られるのではないかと思いますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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