今日も和賀心学 (2022-12-04)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
今朝のお夢の中で教えて頂く事は、氏子の真剣さを悟れよと言うこと。現代の人間社会では、財産、資産と言うものをお金の量で評価されるが、どうも神様の世界では異なっているようだ。その評価方法の一つはその真剣さに有るようだ。別の言葉で言えば真とか一心と言うような言葉かもしれない。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 150頁)
ビデオ: https://youtu.be/0I_Pzsrxj2E
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/12-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-12-04.mp3
合掌
中原博信
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御神訓
わが子のかわいさを知りて
神の氏子を守りくださることを悟れよ
幸福の原点とは、親の喜びを我が身の喜びと感じられる人にしてのみ、
許されるものです
信心も親神の心を悟ってはじめて真の信心が出来ます
おかげ目当ての信心は神の心がわかっただけで悟れていない証です
すべてが、御事柄として受け止め御物としての頂き方からの実験から、
悟りへの実証が生まれます
分かると言う事と、悟ると言う事が違う様ですね、
今朝は初めて気付きました、分かっただけで悟れていない証です、
と師匠が仰って居られますね、
分かっただけではダメだと、悟らなければならないのだと、
分かると悟る、どう言う事なのでしょうかね、
今の私にはよく分かりませんけれども、
ただ分かっただけではいけない、
これはただ理解しただけではいけない、と言う事かもしれませんね
それこそ魂が悟ると言う事でしょうかね、
心が悟ると言う事でしょうかね、
実感すると言う様な事に繋がるのかもしれませんね
心で実感する、魂で実感する、
やはりそう言うものがなければならない、
と言う事だろうと思いますね
師匠がよく仰って居られましたのに、
その、信心はいわゆるフィーリィングだと、
いわゆる感じる事だと、感じる心、
神様を、なる程頭で、教えを聞いて理解する、
なる程そう言う神様か、こう言う神様かと分かる、
その分かっただけでは、
いわゆる神様の事が真実に分かったと言う事ではない訳ですね、
そのなる程こう言う神様だと、
心で感じる、神様の愛が分かる、
それこそ言葉をもって説明されて、御理解を聞いて、
なる程それが神の愛かと分かる、
それでは身に着いていないわけですね、
悟っていないわけです
いわゆるその例えば成行きを通して、その事柄を通して、
なる程これが神様の愛の現れであった、
なる程神様の愛だった、愛だと、その心に感じる、魂に感じる、
その時に初めて、その悟りともなるのではないでしょうかね、
やはり感じると言う事が大切ですね、分かるだけではなく感じる、
感じる所から悟りへとも繋がって行くのではないでしょうかね、
信心はやはりですから、勿論分かると言う事が要りましょうけれども、
いわゆる理解すると言う事ですね、
それから更に、感じる、
実感すると言う事がまた大切だと思いますね、
分かると言う事と、そしてまたその事を実感として分かる、
実感として感じると言う事ですね、
その神様の御働きを感じさせて頂く、
今朝はあるお夢を頂きました、
そのお夢の中で教えて頂きました事は、
それこそ御神者さんの真剣さ、と言うのでしょうかね、
真味と言うのでしょうかね、その今までは何か、
神様の方にばかり目を向けておりましたけれども、
御神者さんの方にも、
いわゆる氏子の方にも目を向ける事が要ると言う事なのですね、
どこに目を向けるのか、それは氏子の真剣さ、
どれ程しら真剣であるか、と言う事が大切だと言う事ですね、
一心の真とか申されますけれども、
その一心が氏子にどれ程有るかと言う事ですね
人を、今の世の中では人の評価と言うものを、
あの人は財産家だと、どれくらいお金が有ると、
いわゆる資産家だと言った様なお金と言うものに換算して、
それこそ有名人の何ですかね、
あの人達はあれくらいお金が有るとか、
長者番付で、今一番の資産家は誰それで何十億、何百億のお金が有る、
と言った様な評価を致しますね、
それでそのお金が、お金を沢山持ってる人が偉い様な、
そこに憧れを持ったり致しますけれども、
神様の世界では、そうではないと言う事ですね、
人間がどれ程お金を持って居るか、
師匠は、金が無いのとは、首の無いのと同じだと言った様な、
その世間で言われる事が有る、
それも確かに一理は有ると、
この世で人間社会の中で生きて行く上において、
お金と言うものが、その力を持つ事も有る、
ですから、決してそれを否定するわけではない、
無いよりか有ったに越した事はない、
しかしそれが有って、間違った道に道を踏み外してしまう事にも
なりかねない事にも有るわけですね、
そう言う事になってはいけませんけれども、
ですからお金と言うものも、
もうそれこそ諸刃の剣と言われる様な所も有るのかもしれませんね、
神様から許されての、言わばこれ位は持っても良い、
と言うものであるならば、良いのでしょうね、
使うて減らぬ金百両ですか、そう言う表現もされますからね、
神様の御信用を頂くと言う事はそれこそ、
使うて減らぬ金百両、金百両を神様から与えて下さる、
と言う事でも有りましょうけれどもね、
しかし本当の意味においての値するもの、
値打ち有るもの、
それはやはり氏子が神様にしら真剣に向かう、その姿、
度合いだと言うわけですね、
氏子が神様に対してどれ程真剣に心を向けておるか、
一心と言うのでしょうかね、その一心さの加減、
それをやはり育てて行かなければならない、
それこそ神様にしら真剣に向か氏子であってくれよと、
そういう氏子こそが、何と言いましょうかね、
信心においては、価値有る氏子だと言う事ですね、
お金が有るから価値有る氏子であるのではない、
神様にどれ程真剣に向こうて来るか、
その真剣に向こうて来るその真剣さが、
価値有る氏子だと言う事ですね
世間の評価と、信心においての評価と言うものには、
明らかに違いが有りますね、
神様の目からご覧になって、
神様から評価される私どもでありたいものですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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