2022年12月30日金曜日

私どもの助かりには、形の上の助かりと、心の上の助かりが有る (2022-12-30)

 今日も和賀心学 (2022-12-30)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


助かりが、自らの助かりを求めてのものから、人様の助かりへ、更には神様が助かられることへと育って行かねばならない。先ずはこの世で生身を持つ私が助かる為には、いわゆる形の上の助かり、そして心の上の助かりを頂いて行かねばならない。形の助かりが付いて来る程しの心の助かりになれば一層有難い。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 365頁)


ビデオ: https://youtu.be/_T7UiaXpWcY

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/12-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-12-30.mp3


合掌

中原博信

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御理解 第57節




金の杖をつけば曲がる、竹や木は折れる

神を杖につけば楽じゃ




歩いて行く人、自転車で行く人、車で行く人

お徳の車で行けば楽です




神を杖につけば楽ですと、

楽でないなら、神を杖についていない、と悟らねばなりません、




と言う御教えも有りますね、

神を杖につく、何故神を杖につこうとするのか、




また、何故信心をするのか、

と言う問いが有りますけれども、




やはり私は何と言っても、

助かる為、にやはり信心をするのだと思いますね、




それこそあれは何ですか、アクセサリー代わりの信心、

と言う事を言われたり致しますね、




しかし別にアクセサリーの為に、

として信心をする、




この信心をしたら格好が良いから、見え体裁が良いから、

この信心をしようと言うわけでは有りませんね、




そう言うのも中には有るかもしれませんけれども、

それこそ名の知れない藪神小神の信仰よりか、




三大宗教と言われる様な有名どころの、名の通った宗教を信仰する、

それならば良い、と言う様な方も居られるかもしれませんね、




どこの馬の骨やらと言うのか、

どこの馬の骨の様な神様やら分からない神様を信仰するのは、




胡散臭い、けれどもちゃんとした、

いわゆる三大宗教と言われる様な、そう言う世間で通って居る、




そう言う神様、仏様の信仰をするのは、それは構わない、

とか言った様な事を言う方も居られるかもしれませんけれども、




結局の所、詰まる所、私どもが信心をする、信仰をする、

それは助かりを求めてのものでなければならない、




その助かりが、先ずは私自身の助かりを求めての信仰である、

そしてそこから、




自分自身が助かると言う事よりも、他の人々、

他の人々が助かられる事の為の信心へと、




移って行くと言うのか、

育って行くと言う事ですね、そしてその助かりが更に、




神様が助かって下さる事の為の信心へと、また育って行く、

最初は自分自身が助かりたい、助けてもらいたい、




と言う所から入るのでしょうけれども、

それが段々人様の助かりを祈れるようになり、




そしてまた更に神様の助かりをも祈れるようになる、

そうなった時に初めて、全人類と言うのでしょうか、




人間だけではなく、勿論動物たちもそうであったり、

生きとし生けるもの、あるいは生きていないものでも、




命の無いもの、命が無いと思われるものでも、やっぱりそこそこに、

そのそこに在ると言う事を全うせねばならんのでしょうから、




全てのものが助かって行く道は無いものだろうか、

と言う事になりますけれども、




先ずは私自身が助かる、と言う事が大切だと思いますね、

そしてその私自身が助かる、と言う事においても、




今朝頂きますのは、その助かり様が 2つ有ると、

2つのタイプと言うのでしょうかね、




それは、一つは形の上においての助かりだ、

これは生身の人間としてこの世に生かされて居る、




やはり生身の人間ですから、

食べないわけには参りません、




食物を頂き、そして頂かなければ、やはり

この世での助かりは有りませんからね、死んでしまいますからね、




やはりこの世においておかげを頂いて行く、

この世において助かると言う為には、




食べるものは食べ、

飲むものは飲み、出すものは出す、




いわゆる形の上のおかげ、

形の上の助かり、をやはり頂いて行かねばならない、




と同時に、私どもがあの世に行く存在である、

言わば、神の子としての存在である、ならば、




あの世に行っても助かっておれる、

それは何か、それは心の助かりだと、




如何にこの世で肉体的な助かりを頂いたとしても、

それはあの世に持って行く事は出来ない、




あの世に持って行けるのは、

心の助かりだと、言う事になりますね、




ですから私どもが、この世で信心の稽古をさせて頂く、

その為には、私どもの助かりを求めて、




その助かりも、形の上の助かりと同時に、心の上の助かり、

その心の助かりと肉体的な助かりとでも言うのでしょうかね、




頂きますのは、そのスピリチュアルのサルベーション、と

フィジカルのサルベーション、




この 2つがやっぱり相まって行かねばならない、

そう言うおかげを頂いて行かねばならない、と言う事なのですね、




勿論、それが心の助かり、

そこにまた形の上にも助かりが得られる、




師匠が仰って居られましたように、

形の上の助かりが得られる様な、心の上の助かり、




と言うのでしょうかね、それが言わば、

和らぎ賀ぶ和賀心と言えるのかもしれませんね、




形のおかげが付いて来る程しの心の助かり、であって初めて、

本当の助かり、と言う事になるのではないでしょうかね、




如何に形の上のおかげを頂いても、

心が助からない、助かっていないと言う事が有ります、




また如何に精神主義的な心の助かりを求めて、

それが得られたとしても、形の上に全然助かっていない、




心は助かって居るように有るけれども、食べる物も食べられない、

と言う様な事では、人間としての助かりでは有りませんね、




この世に生有るもの、

この世に生きさせて頂いて居る人間としての助かりを頂く為には、




やはり形の上の助かり、そして心の上の助かり、

それも出来るならば、




形の上の助かりが付いて来る程しの心の上の助かり、

を頂きたいものですね、




形の上の助かりだけだったら、取次ぎの先生にお願いして、

右左にしてもらえば、それで良いのかもしれませんけれども、




心の上の助かり、と言う事になれば、




やはり御教えを頂き、御教えを行じ、

そして自らの心が育つ事によってしか得られませんね、




どうでもこの 2つの、自らの心の助かり、

それが、形の上のおかげが付いて来る程しの助かりを頂きたい、




そしてそれが、自らの助かりに止まらず、

人様の助かりにも繋がり、




と言う事になるのではないでしょうかね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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