今日も和賀心学 (2022-12-17)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
昨日は、これは私が思うのだが、師匠大坪総一郎師の信心の真骨頂ではなかろうかと思うお話に出会わせて頂いた。それは、私と、もう一人の私が居ると仰って居られた。人間が人間らしく生きる私と、求道者としてどこまでも修行精神旺盛な私と言う様な事になろうか。ある意味二面性のある私とも言えようか。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 356頁)
ビデオ: https://youtu.be/QpwS3JFLZkM
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/12-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-12-17.mp3
合掌
中原博信
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御理解 第54節
徳のないうちは心配する
神徳を受ければ心配はない
まず御神徳を受けたい
ある人は
「金光教の信心は一切をおかげにしていく道だ」と説かれた
合楽では「一切をお徳にしていく道」を教える
先ずは『一切神愛論』のマスターから
一切神愛論のマスターから、
と教えて居られます
一切神愛論をマスターする、
それは合楽理念をマスターする、
師匠大坪総一郎師の信心をマスターする、
と言う事に繋がると思うのですけれども、
昨日は研修を頂いておりましたら、
それこそ目から鱗の様なお話に出会いました、
これが師匠の信心の真髄でもあろうか、
真骨頂でもあろうか、
と、これは私が感じるのですけれども、
私にとってそう思える様な教えでした、
その研修の中でのお話ですね、そしてそれならばと思い、
その元となる朝の御理解を頂かせて頂きました、
ところがその朝の御理解を頂くだけでは、
何かもう一つピンと来ないと言うのか、良く分からなかったのですね、
響いて来なかった、しかしその研修を頂くと、
なる程そうなのかと、よく合点が出来させて頂いた
これはやはりその両方を頂くのが本当なのかもしれませんね、
より理解が深まると言う事かもしれませんね、
そしてその言い足りなかった部分とか、言うもの、
より補ってお話して下さってある、
そして色々な先生方が自分の頂く角度から纏めて居られる、
その纏めを頂くと言うのでも、
その師匠の御理解の頂きようが違いますから、
大変勉強になりますね、
それで何を頂いたかと言いますと、
師匠がこう言う事を仰って居られました、
それは、私が居ると、そしてもう一人の私が居ると、
私ともう一人の私が居る、と言うお話でした、
これは目から鱗的な事でしたね、どう言う事かと言うと、
師匠は合楽理念の目玉は何かと、それは目玉商品ですね、
それは、人間が人間らしくと言う事だ、
と、その人間が人間らしい生き方をしながら、
そこにいわゆる今日の御理解、ミニ御理解で言えば、
御神徳を頂いて行く道がそこに有ると、
その難行苦行をしなければならないとか、
いわゆるその何と言いましょうかね、
勤勉実直と言うのでしょうか、
いわゆるそう言う、
いわゆる真面目一本でなければ御神徳は頂けないとか、
言うものではないと、
人間が人間らしく、食べたいものは食べ、
飲みたいものは飲み、遊びたい時には遊び、
と言った様なそう言う人間らしい生き方の中に、
おかげを頂く、御神徳を頂いて行く道が有るのだと、
言う様な事を教えて下さいますね、
ですからともすると私どもは、
人間が人間らしくと言う所に惹かれて、そちらの方ばかりに、
言ってみれば、
飲み食いなら飲み食いの方ばかりに走りがちですけれども、
そう言う私が居ると、と同時にもう一つ、
もう一人の私が居ると、
言わばそちらの、もう一人の私は、
信心修行に厳しい私だと言う事ですね、
よく、師匠が御晩年に教会のお見回りと言うのでしょうか、
私は巡拝だと思っておりましたが、
教会内を車椅子に乗って、私ども修行生が後を押させて頂き、
回らせて頂くのですけれども、
中には大変きつそうにして居られる時も有りました、
もうそんなにきついなら、お寝み下さいと、
もう回らなくて良いではないですかと、
言いたい様な時ですけれども、
それでも師匠は、そのきついからこそ回るのだと、
だから回るのだと、いわゆる仰って居られましたね、
その例えば、御結界奉仕でも、もうきついと、
今日はきついからやめておこうと、言うのではない、
そのきついからこそ、
御結界の奉仕をさせて頂くのだと、
何と言いましょうかね、修行精神と言うのでしょうかね、
それがまた旺盛であられたと言う事ですね、
その辺の兼ね合いがよく分かりませんでした、
どこからどう言う風に、そう言うある意味 2面性ですね、
ジキルとハイド氏ではありませんけれども、
その 2面性がお有りになった、
二重人格と言えば、二重人格的な所が有られた、
しかし、そう言うものだと言う事なのですね、
それが、師匠の信心のある意味、真骨頂でもあろうと、
私が居ると、そしてもう一人の私が居ると、
それは人間が人間らしくと言う私と、
修行精神旺盛な私とが居ると、
それがその時々と言うのでしょうかね、神様の成行きのままに、
見事に切り替えて居られたと言う事でしょうかね、
そのバランスが大切だとも仰って居られましたけれどもね、
これは例えばよく学生でもガリ勉タイプの人が居られますね、
猛烈に勉強すると言うのか、
いわゆるガリ勉ですね、
と、もう一人は勉強をしない、
いわゆる遊んでばっかりの学生さんが居られると致しましょうかね、
そう言う、師匠の場合にはその 2面性が有ると、
遊びほうける面も有れば、ガリ勉の面も有ると、
言う事ではないでしょうかね、
遊ぶ、よく遊ぶ時には遊べ、勉強する時には勉強をしろ、
と言われますけれども、
正にそう言う様な感じではないかと思いますね
神様がここは人間らしくと言われたら、
それこそ人間らしくされる、
そしてここはそれこそ、神の子として、取次者として、
務める所は務めよと、言う事ではないかと思いますね、
それで良いのだと言う事です、
私ども人間にはやはりその 2面性が有るものだと、
私と、そしてもう一人の私が居ると、
またこの 2人の私が居なければならない、と言う事かもしれませんね
その 2人の私が居て、それが相まって行く所に、
いわゆる御神徳と言う事になって行く、
これが人間が人間らしくと言うだけだと、
おかげだ、おかげの信心で止まってしまうのかもしれません、
もう一人の私、
いわゆる修行精神が旺盛な私と言うものが有るからこそ、
御神徳と言う世界にも入って行けれる、
ある意味、その二重人格的なものが居ると言う事でしょうかね、
別の言葉で言えば、人間としての人間らしさ、
そして神の子としての神の子らしさ、
それは神の子として、生神への精進と言うのでしょうかね、
人が助かる事さえ出来れば、と言った様なその修行をさして頂く、
そう言う人間としての私、神の子としての私、
私と、もう一人の私が居る、と言う事ですね、
これがある意味、
師匠大坪総一郎師の信心の真骨頂ではなかろうかと、
これは私が思うのですけれどもね、何か身につまされて、
そう感じさせて頂く所が有るように思いますね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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