2022年12月12日月曜日

吾無力を悟る所から天地金乃神様の無限力に触れることが出来るようになる (2022-12-12)

 今日も和賀心学 (2022-12-12)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


神様への御礼心を育てることを阻害するもの、それは我が才覚、我が力で出来る、出来たと思う心であろう。師匠大坪総一郎師は、吾無芸無能無才にして只信有るのみと、神様のおかげを頂かなければここ一寸動けぬ私だと吾無力を悟られた。そこから愈々神様への御礼心が育ち、天地金乃神様の無限力に与ることも出来るようになる。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 83頁)


ビデオ: https://youtu.be/9vRD8CeZLFo

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/12-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-12-12.mp3


合掌

中原博信

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御神訓




天地のことは、人の眼をもて知りて知りがたきものぞ

恐るべし恐るべし




一寸先は闇の夜というが、

心に明かりをともすことが出来たら闇はない




心に明かりを頂けば心は触角の働きをするものである

危ない所は除けることが出来る




真愛にかばわれ真愛を悟る時、

心の明かりはいよいよ冴えてくる




真愛に庇われ、真愛を悟る時と、

真の愛と書いてありますね




師匠大坪総一郎師が、普通は神愛、神の愛と書く所だと思いますが、

真の愛と書いて居られます、




神の愛と、真の愛とどう違うのか、

理屈っぽい事を言うとよく分かりませんけれども、




神の愛、それこそが真の愛と言う事かもしれませんね、

その真の愛と言うのは一体なんだろうかと思いますね、




私どもの心が育つ、やはり真の愛と言うのはそれこそ

真の愛こそが神様の愛だと思いますが、




それはただ痛い時に掻いてもらったり、

撫でさすりしてもらう、するだけの愛ではない、




たまには厳しい事も有るかもしれませんね、

愛の鞭などと言いますけれども、そう言う事も有るかもしれません、




内容として含まれるのではないでしょうかね、

ただ撫でさすりするだけの愛ではない、中には厳しい時も有る、




そう言うものが真の愛と言うのではないでしょうかね、

そしてそこにそれこそ神様の愛が有る、と言う事でしょうかね、




その真の愛、神の愛、

それを悟るにはどうあったら悟れるのだろうかと、




昨日は、御礼心を育てるとか、御礼心が育つ事だと、

言う事でしたけれども、




そのではどうやったら御礼の心が育つのだろうかと、

またどうやったら御礼の心が育たないのだろうかと、




その育たない事を考えてみれば、

育つ事も理解し易いのではないかと思いますね、




で、今朝は、その御礼心が育たない、こう言う時には、

その御礼の心が育たないと言う例として、




それこそ自分の力でしたと、自分の知恵才覚でそれが出来たと、

思う時に、その御礼の心は湧いて来ないと、




例えば、学校の受験をする、それこそ就職をするでも、

自分が一生懸命就職活動をした、あるいは一生懸命勉強をした、




それでそれこそ寝ないようにして勉強をした、

大変努力をした、だから学校に合格した、就職が出来た、




と言う、自分がこれほど頑張ったから、努力をしたから、

それで出来たと言う所には、




とても神様への御礼の心などは湧いて参りませんね、




自分にはどうしようも出来ない、神様のおかげで、

言わば神様のお手伝いと言うのでしょうかね、




神様の御働きを頂いて、神様から御守護を頂いて初めて、

学校へも合格が出来た、就職もさせて頂く事が出来た、




となった時に初めて、その神様への御礼の心も湧いて来る、

と言うのではないでしょうかね、




その神様への御礼の心、神様のおかげでと、神様の御働きのおかげで、

それこそ神様の愛に庇われておるおかげで、




と言う事になるのでしょうけれども、その神様のおかげを頂いて、

と言う神様のおかげで、と言うものを実感として感じさせて頂く、




その為には、自分がした、

自分が努力をしたからだ、と言う、




自分に力が有る、才能が有る、

と言うそれが無くならなければなりませんね、




師匠がよく仰って居られます、

吾、無芸無能無才にして、只信有るのみと、




その吾無力と言うものが悟られた時に初めて、

一切が神様のおかげを頂かなければ立ち行かないのだと、




ここ一寸動くでも、箸の上げ下ろしに至るまで

自分に力が有るから、自分に能力が有るからして居るのではない、




神様のお許しを頂いて、神様の加護を頂いてさせて頂く、

させて頂いて居るのだと、




その神様のおかげを頂かなければ、ここ一寸動けぬ私だ、

と言う事が悟れた時に、そこから神様のおかげでと言う事が分かり、




そこに初めて、御礼の心が育って来る

のではないでしょうかね




自分がする、自分がしたと言う所には、

中々御礼の心は出て来きませんね、どうでも神様への御礼の心が育つ、




その為には愈々、吾無力と言う事が、

何と言いましょうかね、悟れると言うのでしょうかね、




そしてここ一寸動けぬ私だと、神様のおかげを頂かなければ、

ここ一寸動く事が出来ない私だ、と悟れた時に初めて、




本当の意味においての神様への御礼の心が

愈々育って来るのではないでしょうかね、




それこそその吾無力を悟れて初めて、神様の真の愛と言うものも

実感として悟れると言うことではないでしょうかね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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