2022年12月22日木曜日

師匠大坪総一郎師の神様への孝行心 (2022-12-22)

 今日も和賀心学 (2022-12-22)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


師匠大坪総一郎師の残された御理解は録音されたものだけでも 9千を超える。今まではその御理解の内容を残すことに心を使って来たが、もっと大切なものが有る事に気付かされた。それは師匠が本当に大切にされたもの、どうやって御教えが生みなされたかと言うこと。一言で言えば師匠の神様孝行心だと思う。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 75頁)


ビデオ: https://youtu.be/Y7qeq64WLi0

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/12-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-12-22.mp3


合掌

中原博信

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御神訓




信心する人の真の神徳を知らぬこと




ほんとうの魚好きは魚の頭を求めるという

身だけを求める人は、ほんとうの魚好きとは言えない




信心もおかげだけを有難がっておる人は

未熟の証拠である




ふつうの人では頂きかねるような問題でも、

それを御神意として受けとめていく




御神意がわかり

真の神徳にふれていくこともできる




本当の魚好きは、

と師匠が仰って居られます




本当の魚好きはと、魚好きが、何と言いましょうかね、

魚好きの人は沢山居るけれども、本当の魚好きの人は少ない、




と言う事かもしれませんね




そのやはり信心をする、と言いますと、

やはり自分自身がおかげを頂きたい、




あるいは自分の身内の者におかげを頂いてもらいたい、

と言った様な、自分がおかげを頂く事、




それは人間側のものですね、人間側のものがおかげを頂くと言う事、

言わば好都合のおかげですね、




その好都合のおかげを頂く事に終始してしまいがちですね、

それはそれで良いと思うのですけれども、




そこからもう一歩踏込むと言うのでしょうかね、




愈々その本当の魚好き、

本当の信心を求めると言う事が要るように思いますね、




師匠が、なる程沢山の御教えを残して居られます、

それらが何の為の御教えなのかと言う事ですね、




またその御教えの量でも有りませんね、

その御教えの量は、それは師匠が神様との交流の証、




とでも言うのでしょうかね、そこから師匠と神様との間で、

間から生みなされたものだと思いますね、




そのではどうやったらそう言う御教えが生み出されるか、

と言う所が大切な所だと思いますね、




その御教えの内容と言うものは、その人に応じて、

または時代、時代に応じて変わって来るのかもしれません、




それこそ江戸時代には有効であった御教えが

現代の世に有効かと言うと、それはまた違った話かもしれません、




その時代、時代に応じて変わる御教えも有ると思いますね、




大切な事は、その時代、時代、その時、その時に生きた人が、

神様とのそれこそ交流によって生みなされる御教え、




その時、その時の御教えがやはり大切だと思うのですが、

どうしたらその時、その時の御教えが生みなされるか、




師匠が、沢山の御教えを生みなされた、

その中身が大切である事は勿論でしょうけれども、




どこからそう言う沢山の御教えが生みなされたか、

それが一番大切な所ではないかと思いますね、




師匠が生みなされたと言うのでしょうか、

語られたその御教えを伝える、と言う事は勿論大切ですけれども、




それ以上に、

どこからそう言う師匠の御教えが生まれて来る事になったか、




その大本の所が伝わって行かなければならない、




それは、それこそ千年経ったらその教えが役に立たなくなる、

と言う御教えも有るのでしょうからね、




いつの時代でも、その時代、時代に応じて有効な教えと言うものが、

やはり取次者によって生みなされて行かねばならない、




その生みなす力を伝えて行くと言う事が、

一番大切なのではないでしょうかね




教えそのものを伝える、と言うのではない、

その教えがどうやって生みなされたか、




その教えを生みなす力、を伝えて行くと言う事ですね、

為には、師匠が最も大切にされた事、それはどこに有るのか、




それを分からねばならないと思うのですけれども、

やはり師匠が大切にされたものを大切にして、




それをまた伝えさせて頂く




どこからそう言う師匠と神様との

類い稀なる間柄と言うのでしょうかね、




それが生まれて来たかと言う事ですね、

それは、師匠は、信心は親孝行が根本だと仰って居られましたね、




ですから師匠も仰って居られますように、

それこそ先ずは自分の親に孝行をしたい、




と言うその為の信心であったわけですね、勿論その最初は、

自分がおかげを頂きたいと言う事であったのでしょうけれども、




その自分がおかげを頂きたいと言う、それも、

親に安心して頂きたい、親に喜んで頂きたい、




と、親を喜ばせる、親を安心させる為の信心だったのですね、

肉親の親ですね、




そしてそれが、それ以上の言わば親教会の親先生、

教えの親と言う事になって来たわけです、




肉親の親の為の信心から、

それこそ教えの親の為の信心へと、




そして更にその親が、それ以上の親が居られたと、

言わば神様ですね、親神様だと言う事になって来たわけです




一番の親様、それは神様だと、

天地金乃神様が一番の親様だと




ですから、師匠の信心はどこまでも、

やはり親孝行の信心だと、言う事になりますね、




自分がそれこそ良いものを食べたいから、

楽しい事をしたいから、




自分の都合の良いように行くように、

と言う信心をされたわけではない様ですね、




親が生きてる間は、それこそ 3度 3度のご飯を食べさせて下さい、

もう親が亡くなったら、もう私の事はどうでも良いです、




と言うのが、師匠の信心ですね、

親にご飯を 3度 3度のご飯を食べさせて下さい、と言う親の為の信心、




どこまでも親孝行ですね、

その親孝行の親が、肉親の親から教えの親へ、




そしてそれこそ、要の親と言うのでしょうかね、

一番の親と言うのでしょうか、神様、




師匠の信心はその神様孝行が根本だと

言う事になりますね、




自分が何と言いましょうかね、頂きたいおかげを頂く為に、

信心をされたのではない、




神様に喜んで頂く為に、神様に安心して頂く為に、

神様孝行の信心であったと言う事になりますね、




その神様孝行の信心から沢山の御教えが生みなされた

と言う事になるのではないでしょうかね、




ですからどうでも師匠が大切にされたもの、

それは親孝行ですね、




その親孝行の心を持っての信心、その親孝行の心から出た所の信心

と言う事になりましょうかね、




私どもも、そこの所を、そこの所が育つ様な、

心のお育てを頂かねばなりませんね、




それこそ神様に喜んで頂きたい、

神様に安心して頂きたい、




と言う様な神様孝行の信心が出来る様な私どもに、

私どもの心が育って行かなければならないと言う事ですね、




そしてそこから初めて、様々なその時、その時に応じた御教えへも

生みなされて来るのだと言えると思いますね、




大切な事は、師匠が生みなされたその御教えの内容ではない、

勿論それも大切だけれども、




大切なのは、どこからそう言う御教えが生みなされたか、

と言う事の方がより大切だと言うことですね、




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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