2022年12月21日水曜日

師匠大坪総一郎師の御教え、一切神愛の役目には 2つ有る (2022-12-21)

 今日も和賀心学 (2022-12-21)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


師匠大坪総一郎師の御教え、一切神愛の役目には 2つ有ると思う。たとえ自分に不都合な成行きでも、師匠が神愛と仰られるのだから神愛に違いないと確信し受け貫いて行くと言う使い方。と、目指すは和賀心、体得するは一切神愛と仰せられるように、あれも神愛だったと自らの心の中に体得して行く一切神愛。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 94頁)


ビデオ: https://youtu.be/eTx7YSadX2k

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/12-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-12-21.mp3


合掌

中原博信

-------------------------------------------------------


御神訓




生きたくば 神徳を積みて長生きをせよ




神さまに頂いた寿命を充分に生き抜く力を、

信心によって養っておかねばなりません




どんな難儀の中でも、

信心によって養われる信心辛抱の徳こそ長生きの徳です




教祖さまは

『死したる後、いついつまでも拝んでもらえるのが長生きじゃ』




と教えておられます




長生きの徳、

と教えて下さいます、




ここで教えて下さるのは、

それこそ生身の人間の命、も有りましょうけれども、




それこそ死したる後、神に祀られる、と言う、

いついつまでも人々の心の中に生きる、と言うのでしょうかね、




そう言う長生き、

と言う事もあろうと思いますね、




もう亡くなってしまえばそれで直ぐ忘れ去られてしまう、

と言う人々が多い中にあって、




いついつまでも人々の心の中に生きて居る、

と言う長生きが有りますね、




師匠大坪総一郎師なども、

それこそ生身を持った人間としての齢は 80歳ですか、




しかしそれがいわゆる教えの親として、私どもの心の中に、

やはりまだ生き貫いて居られますね、




もう何年になるのでしょうか、

そう言う意味からすると、100年以上と言う事になりますね、




師匠大坪総一郎師が教えて下さった御教え、

まぁ体得されたと言うのでしょうかね、




感得されたと言うのでしょうか、悟られたと言うのでしょうか、

その一切神愛と言うのが有りますね、




今朝はこの一切神愛と言うそれを、使い方と言うのでしょうか、

頂き方と言うのでしょうか、2通り有ると教えて頂きました、




その一つは、いわゆる目指すは和賀心、体得するは一切神愛、

と教えて下さいますように、




その自らの心の中に、ああなる程神愛だなと、

あの事も、この事も神様の御神愛の現れだな




と自らの心で体得すると言うのでしょうか、

体感すると言うのでしょうか、




そのなる程一切が神愛だ、と自らが感じ取って行く、

その事の為に、師匠の一切神愛論を使うと言うのでしょうかね、




それによって、それこそ

和らぎ賀ぶ和賀心も頂けて来る事になるのでしょう、




しかしそのなる程一切が神愛だと実感として感じるまでには、

中々時間がかかると思います、




そして一切が神愛だと、人に言った所で、

それを信じてもらえるとは思えませんしね、




しかし少なくとも師匠の許で信心の稽古をさせて頂いて居る、

そして師匠から一切が神愛だ、と教えて頂いた者としては、




さあここからがその一切神愛の 2つ目の使い方ですけれども、

たとえ私どもの思い通りにならない時でも、




または自分にとって不都合な、

と思う様な事が起こって来る時であっても、




師匠が、一切神愛だと教えて下さるから、

だから今この不都合な事、難儀な事であっても神愛に違いない、




神様の神愛の現れに違いない、

と受け貫いて行く、




その成行きを、自らの上に起こって来る出来事を、

受け貫いて行く為のよすがともする、と言うのでしょうかね、




何が何やら分からない、そのならば、受ける事は難しい、

しかし師匠が神愛だ、と教えて下さるから、




この事も神愛に違いない、と受け貫こう、

受けて行こうと言う元気な心が生まれて来るわけですね、




その為にはやはり、師匠への帰依と言うのか、

憧念心と言うのか、師匠を信じていなければならない、




師匠が仰る事だから、

と言う師匠への帰依の心が必要では有りますね、




これは丁度先日も申しましたように、四神様でしたか、

教祖様が傘は要らぬ、と仰せられたから、傘は要りませんと、




雨が降っても傘は要りませんと、そのお断りになって、

傘をささずに帰えられたと言う、




親様の仰せだから、とその事を頂き貫かれたわけですね、

言わば私どもも、師匠の仰せだから、師匠の御教えだから、




一切が神愛と師匠が教えて下さるから、




たとえ今この都合の悪い事が起こって来ておっても、

これも神愛に違いない、神様の神愛の、愛の現れに違いない、




とその事を信じ貫いて、頂き貫いて、

成行きを受け貫く、と言うのでしょうかね




この事も神愛に違いない、

師匠が神愛だと仰るのだから神愛に違いない、




だからこれも土の心で受けて行こう、

と言うまた、腹が決まると言う事でも有りますね、




もしこれがただ、土の心で受けて行きなさい、

成行きは神様の働きだから受けて行きなさい、




とそれだけであるならば、

中々受け貫けない所も出て来ると思いますね、




それを師匠が、一切が神愛だよと、たとえその不都合な事でも、

神様の愛の現れなのだ、神愛なのだ、と教えて頂くから、




その師匠の一言に縋って、また頂き貫いて、神愛として頂いて行く、

受けて行くと言う事も出来る、その腹も決まると言うものですね、




四神様が、親様がああ仰せられるから、と頂き貫かれたように

私どももまた、師匠が神愛だと仰るから、と受け貫いて行く、




その師匠が、神愛だと仰るから、と師匠を信じ貫く、

師匠に帰依すると言うのでしょうかね、




そこをまた試される事も有るように思いますね、

ただ自分の、自分がおかげを受ければ良い、




自分の都合通りに事が運べば良い、と言う思いの間は、

それが中々受けられませんね、




神様がそこのとこを試される時も有ると思いますね、

神の一言を一言として受け貫けるか、




師匠の一言を一言として頂き貫く事が出来るか、

と言う所ですね、




それこそ神様の仰せ通りに仕り候と言う所にも、

相通ずる所ではないでしょうかね、




師匠が、一切が神愛と教えて下さるその御教えの頂き方、

それが 2通りの、2つの面を持って居ると言う事ですね、




先ずはその、師匠が神愛と教えて下さるから、

とその師匠のその一言を信じ貫いて、




都合の悪い事でも、神愛に違いない、と受け貫いて行く、

その稽古の積み重ねの中に、なる程神愛であった、




なる程一切が神愛だ、と実感を持って感じれれるようになる、

そこに愈々、和賀心も頂けて来るのではないでしょうかね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



0 件のコメント:

コメントを投稿