今日も和賀心学 (2022-07-03)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
人間は姿形のある存在である。更に姿形だけではなく心がある存在であるとも言えると思う。人間の存在価値はその姿形としての存在価値もあるのだろうが更に霊魂としての存在価値にも気付かねばならない。人間同士の結び付きがその霊魂の結び付きでもある事を気付かねばならない。結婚は結魂とも言われる。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 472頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第93節
氏子は神の守りをしておる者を神と心得て参詣する
守りが留守なら 参詣した氏子は 今日はお留守じゃと言おうが
神の前をあけておくことはできぬ
万事に行き届いた信心をせよ
常平生 心にかみしもを着けておれ
人には上下があるが 神には上下がない
人間はみな同じように神の氏子じゃによって
見下したり汚がったりしてはならぬぞ
武士にはさむらい言葉 町人には町人ことば
廓には廓にふさわしい里言葉までがあるように
教師は教師らしい 信者は信者らしい
信心態度と内容を持ちたいものである
形よりも内容と言うけれども
形もまた大切である
信心も紋付き袴をつければ紋付き袴をつけた心が生まれる
浴衣がけでは浴衣がけだけの信心である
袴に白扇でも持ったような
キチッとした信心を身につけたいものである
信心態度と内容
形とその心とでも言うのでしょうかね
なる程両方が大切だと思いますね
私どもはとかく目で見る形で判断致しますね
見下したり汚がったりしてはならぬぞと
見下したり汚がる
これは人間の姿形で 目で見て判断している
と言う事が多い様に思いますね
心の眼で見る
肉眼をおいて 心眼を開けよ とも教えて下さいますが
肉眼をおいて 心の眼で見る
言わば心同士が通い合うと言うのでしょうかね 心の眼で見る
今朝は心中祈念の時に
人間とは一体何だろうかと言う事をしきりに思わされたのですね
人間とは何だろうかと
ただ形有るものだろうかと
それこそ機械の中の歯車の一つだろうかと
人間社会の中の一人の人間と言うのでしょうかね
形有る その姿形が有る
それが人間としての存在価値と言うのでしょうかね
もしその機械の歯車が故障した あるいは取り除いた
そしてそこに欠けたら動かなくなる
そこにまた新しい同じ形のものを持って来てはめる
人間社会で言えば その人と同じ様な機能をするものを
そこに持って来て機能させると言うのでしょうか
社会としてはそれで機能するのかもしれない
機械としては代わりのものを持って来れば
それで機能するのかもしれない
それだけだろうかと
いやどうもそうではない
人間社会と言うのでしょうかね
それは姿形の同じものを持って来て
それで取り替えたらそれで良いのかと言うと
そうは行きませんね
やはり人間の特異性と言うのか
それはやはり心だと
人間と言う者は姿形は生きている
いわゆる心臓が動いている
只その形有る生き物である事も確かでしょうけれども それ以上にまた
心が有る生き物だと言う事になるのではないでしょうかね
そして人間同士 その心が通い合っている生き物だと言う事ですね
ある意味心が繋がっている
心で繋がっている生き物 私達と言う事が
言えるのではないでしょうかね
確かにあれは何ですか 歌の文句に
ボロは着てても心は錦 とか言うのが確か有りましたね
ボロは着てても これは姿形の事を言った事でしょう
心は錦 錦の心を待つ
その内容
心の状態を言った事だと思いますが
なる程私どもにはその姿形と
また心と言うものが確かに有ると言う事ですね
そして一見すると その形の上での繋がり合い
形有るものの存在としての存在価値
と同時に 心有るもの その心
心の繋がり合いと言うのでしょうかね
これがやっぱり人間としての
本来のあるべき姿と言うのでしょうかね
目には見えません
目には見えませんから
無くなってしまう その目の前から無くなってしまうと
無くなってしまったかの様に思いますけれども
やはりその目では見えないものの世界
心で感じ合う世界と言うのでしょうかね
その心の繋がり合いの世界
これをやっぱり人間としては大切にして行かねばならない
と そう言う感じがするのですね
肉体の存在としての人間
それは何かで置き換える事が出来るのかもしれない
しかしそこに心の存在
ヒューマンビーイングと言いますね
何とかビーイングと英語では使いますね
人間としての 人間と
ヒューマンビーイングと
状態と言う意味ですかね
ビーイングと
今朝思わせて頂きますのは
それが スピリチュアルビーイングと言う事ですね
これは デバインビーイングと言うと 神としての状態
まあ神を表す事でも デバインビーイングと言える様ですけれども
人間は ヒューマンビーイングだと
そしてそれ以上にまた
スピリチュアルビーイングでもあると言う事なのですね
言わば心有る存在と言うのでしょうかね
その心が有る 心が有ると言う事がまた人間なのであり
その心の繋がり合い
その心の存在と言うのでしょうかね
それがまた人間としての
何と言いましょうかね 存在だと言うのですね
形と内容を 師匠は
そのどちらもが大切であると仰ってあります
しかし私どもは どちらかと言うと形には目が行きますけれども
心の方はとかく忘れがちです
もっと 心が有るのだと
人間はスピリチュアルな生き物だと言う事
魂による生き物だ 魂が繋がり合っている生き物だと言う事を
再確認せねばならないのではないでしょうかね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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