2022年7月14日木曜日

土の心で行こうと心を定めるとき神人の安心が頂ける (2022-07-14)

 今日も和賀心学 (2022-07-14)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


人々は救いを求めて信心を始める。願い事が叶えば救われるように思う。果たしてその願い事が叶えば真に救われるだろうか、また次の不安が襲って来る。真の救いとは真の信心による安心のおかげを頂く事、それは氏子の安心であり、神様の安心でもある。土の心で行こうと心を定めるとき神人の安心が頂ける。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 39頁)


ビデオ: https://youtu.be/YNyaut1Ed8Q

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合掌

中原博信

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御神訓




今月今日で一心に頼め

おかげは和賀心にあり




お道の信心は 究極のところ

安心のおかげを頂くことである




和賀心と安心の心は並行して

育ち 又育てていかねばならぬ




御道の信心は 究極の所

安心のおかげを頂く事である と教えて居られます




真の信心とは 安心のおかげを頂くこと

とも教えて下さいます




私どもが信心をさせて頂く

それはやはり救いを求めての事だと思うのですね




救い 助かり 真の助かりはどこに有るのか

やはり私どもが 心に安心が頂けて居る 頂ける




それはやはり一つの救いの状態

助かりの状態だと思いますね




救いを求めて信心を始める

そしてそこに安心のおかげが頂けれる




それがやはり助かった状態

と言えるのではないでしょうかね




ではその安心のおかげとは

どこに頂けれるのか と言う事になりますね




またよく私どもが信心を始めると言う

それは願い事を叶えてもらおうとする信心




から大抵は始まりますね その救いを求めての信心

それもそれはどう言う救いか




私どもの願い事が叶う

そこに助かりを感じると言う救いですね




願い事が叶えば救われると思う

そう言う救いを求めての信心が多いですね




では私どもの願い事が叶えば

それで救われるかと言うと




中々そう言う訳には行かない様ですね

実際願い事が叶った それで本当に助かったかと言うと




また次の困った事が起きて来る

その連鎖反応と言うのでしょうかね




何とかの連鎖と言いますけれども

次から次にまた何か困った事が起こって来る




と言う様な事になりますね

願い事が一つ叶ったからと言って




私どもの心が救われる

と言う事には中々なりませんね




その安心のおかげ それは一時的な安心ではない

未来永劫の安心のおかげを頂くと言う事




救われると言う事が

その一時的な願いが叶った時の 一時的な救われ方ではなく




それこそ救われた心の状態がいつまでも続く

そう言う救いを求めているのだと思いますね




ではそのどう言う時に安心が出来るのか

また救われる事が出来るのか




安心のおかげを頂くと言っても

私ども自身が安心をする




と言う事と 神様が安心して下さる

と言う事の 2つが有る様に思いますね




私どもが あああったから こうあったから安心が出来る

と言う安心 これはまた直ぐ不安な心が起こって来ますね




一時的な安心です




それが本当のいわゆる本当の安心の心を私どもに頂く

為には それは神様の安心が 私どもに照り返って来ての安心




言わば人間も安心 私どもも安心

神様も安心して下さる




その私どもの安心と神様の安心

それは私どもに対しての安心ですね




その 2つが相伴のうて行く時に

初めて 言うなれば永遠の安心と言うのでしょうかね




本当の安心が得られる時

と言う事になりましょうかね




では私どもも安心し そしてまた神様をも安心して下さる様な状態とは

どう言う時に得られるのだろうと思いますね




それが一つの救われた状態

とも言えるのだと思いますが




今朝頂きますのは 人間が真に救われる

また神様も安心して下さる人間の救われ方と言うものについてですね




ただ人間が自分の願い事が叶って救われた

助かったと言うその救いでは




神様の方は安心して下さらない

安心が出来ないと仰るのですね




人間の一時的な願いが叶って

一時的な救いを得る 助かりを得る




それではまた次の問題が起きて来る

ですから神様としてはとても安心して見ては居れぬと言う訳ですね




人も助かり 神様も安心して下さる

その様な助かり方とは どの様な助かり方だろうかと




それは人々が 土の心になろうと

愈々土の心を本気で身に着けようとするその時だと




今朝はその様な事を教えて頂いた様に思います

いわゆる天地日月の心の地の心ですね




大地の心 私どもの身の上に降り注ぐ一切の事柄

その事柄を通して私どもの心を磨くその根肥やしとしようと言う




また一切を受けて行こうと言う心ですね




大地が こんな汚いものは嫌だとか

綺麗なものしか受け付けない と言う事ではなく




大地は一切合切を受け入れる

そしてそれを良いものを育てる為の根肥やしとして行く




その大地の心 土の心 その心を身に着けよう その土の心をもって

それこそ人生を これからの人生を歩んで行こう




とそこに心が定まった時に 神様も安心して下さると言うのですね

そしてまた私どもも そこに救いが有りますね




どう言う事が起きて来ようと

その事を受けて行こうと言う訳ですから




この事をああして下さい こうして下さいと言う訳ではなく

一切合切を受けて行くと言う肚が決まると言う事ですね




こうなると神様も 言わばその人を教導がし易いと言う訳です

もしその人が あれは嫌だ これは嫌だと




何と言いますかね 我儘と言うのでしょうか

好き嫌いが有ったのでは 神様が本当にその人を教導しようとしても




これをやっても これは食べないだろうなとか

これは食べるだろうか あれは食べないだろうかと




神様の方が気を使わねばなりませんね




この氏子はどういう事を与えても

それを心の根肥やしとして受けてくれる




この氏子は教導がし易いと神様も安心して下さる

そして教え導く為の あの手この手を使うて教えて下さる




その為には氏子にその土の心を身に着けようと言う肚決めがなければ

神様も教導の仕方が難しいと言う事になるのでしょうかね




どうしたら良いのだろうかと

神様を困らせてしまう様な事にもなりますね




神様にも安心して頂き

私どももまた救いを得る




その道が有るとすれば

それは私どもが土の心になると言う事だと言う事ですね




土の心を身に着けようと

そこに肚が決まった時に




私どもがその救いの道の入り口に立った

と言う事ではないでしょうかね




そこから様々な御教導が

神様がして下さると思うのですけれども




先ずはその土の心を身に着けようと

土の心で行こうと肚が決まった時に初めて




その真の安心の世界の入り口に立った

と言えるのではないでしょうかね




またそこからの精進は限り無いものであるでしょうけれども

その安心の世界に入る 真の助かりの世界に入る




その為には どうでも土の心で行こう

と言う肚決めが要ると言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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