今日も和賀心学 (2022-07-14)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
人々は救いを求めて信心を始める。願い事が叶えば救われるように思う。果たしてその願い事が叶えば真に救われるだろうか、また次の不安が襲って来る。真の救いとは真の信心による安心のおかげを頂く事、それは氏子の安心であり、神様の安心でもある。土の心で行こうと心を定めるとき神人の安心が頂ける。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 39頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
今月今日で一心に頼め
おかげは和賀心にあり
お道の信心は 究極のところ
安心のおかげを頂くことである
和賀心と安心の心は並行して
育ち 又育てていかねばならぬ
御道の信心は 究極の所
安心のおかげを頂く事である と教えて居られます
真の信心とは 安心のおかげを頂くこと
とも教えて下さいます
私どもが信心をさせて頂く
それはやはり救いを求めての事だと思うのですね
救い 助かり 真の助かりはどこに有るのか
やはり私どもが 心に安心が頂けて居る 頂ける
それはやはり一つの救いの状態
助かりの状態だと思いますね
救いを求めて信心を始める
そしてそこに安心のおかげが頂けれる
それがやはり助かった状態
と言えるのではないでしょうかね
ではその安心のおかげとは
どこに頂けれるのか と言う事になりますね
またよく私どもが信心を始めると言う
それは願い事を叶えてもらおうとする信心
から大抵は始まりますね その救いを求めての信心
それもそれはどう言う救いか
私どもの願い事が叶う
そこに助かりを感じると言う救いですね
願い事が叶えば救われると思う
そう言う救いを求めての信心が多いですね
では私どもの願い事が叶えば
それで救われるかと言うと
中々そう言う訳には行かない様ですね
実際願い事が叶った それで本当に助かったかと言うと
また次の困った事が起きて来る
その連鎖反応と言うのでしょうかね
何とかの連鎖と言いますけれども
次から次にまた何か困った事が起こって来る
と言う様な事になりますね
願い事が一つ叶ったからと言って
私どもの心が救われる
と言う事には中々なりませんね
その安心のおかげ それは一時的な安心ではない
未来永劫の安心のおかげを頂くと言う事
救われると言う事が
その一時的な願いが叶った時の 一時的な救われ方ではなく
それこそ救われた心の状態がいつまでも続く
そう言う救いを求めているのだと思いますね
ではそのどう言う時に安心が出来るのか
また救われる事が出来るのか
安心のおかげを頂くと言っても
私ども自身が安心をする
と言う事と 神様が安心して下さる
と言う事の 2つが有る様に思いますね
私どもが あああったから こうあったから安心が出来る
と言う安心 これはまた直ぐ不安な心が起こって来ますね
一時的な安心です
それが本当のいわゆる本当の安心の心を私どもに頂く
為には それは神様の安心が 私どもに照り返って来ての安心
言わば人間も安心 私どもも安心
神様も安心して下さる
その私どもの安心と神様の安心
それは私どもに対しての安心ですね
その 2つが相伴のうて行く時に
初めて 言うなれば永遠の安心と言うのでしょうかね
本当の安心が得られる時
と言う事になりましょうかね
では私どもも安心し そしてまた神様をも安心して下さる様な状態とは
どう言う時に得られるのだろうと思いますね
それが一つの救われた状態
とも言えるのだと思いますが
今朝頂きますのは 人間が真に救われる
また神様も安心して下さる人間の救われ方と言うものについてですね
ただ人間が自分の願い事が叶って救われた
助かったと言うその救いでは
神様の方は安心して下さらない
安心が出来ないと仰るのですね
人間の一時的な願いが叶って
一時的な救いを得る 助かりを得る
それではまた次の問題が起きて来る
ですから神様としてはとても安心して見ては居れぬと言う訳ですね
人も助かり 神様も安心して下さる
その様な助かり方とは どの様な助かり方だろうかと
それは人々が 土の心になろうと
愈々土の心を本気で身に着けようとするその時だと
今朝はその様な事を教えて頂いた様に思います
いわゆる天地日月の心の地の心ですね
大地の心 私どもの身の上に降り注ぐ一切の事柄
その事柄を通して私どもの心を磨くその根肥やしとしようと言う
また一切を受けて行こうと言う心ですね
大地が こんな汚いものは嫌だとか
綺麗なものしか受け付けない と言う事ではなく
大地は一切合切を受け入れる
そしてそれを良いものを育てる為の根肥やしとして行く
その大地の心 土の心 その心を身に着けよう その土の心をもって
それこそ人生を これからの人生を歩んで行こう
とそこに心が定まった時に 神様も安心して下さると言うのですね
そしてまた私どもも そこに救いが有りますね
どう言う事が起きて来ようと
その事を受けて行こうと言う訳ですから
この事をああして下さい こうして下さいと言う訳ではなく
一切合切を受けて行くと言う肚が決まると言う事ですね
こうなると神様も 言わばその人を教導がし易いと言う訳です
もしその人が あれは嫌だ これは嫌だと
何と言いますかね 我儘と言うのでしょうか
好き嫌いが有ったのでは 神様が本当にその人を教導しようとしても
これをやっても これは食べないだろうなとか
これは食べるだろうか あれは食べないだろうかと
神様の方が気を使わねばなりませんね
この氏子はどういう事を与えても
それを心の根肥やしとして受けてくれる
この氏子は教導がし易いと神様も安心して下さる
そして教え導く為の あの手この手を使うて教えて下さる
その為には氏子にその土の心を身に着けようと言う肚決めがなければ
神様も教導の仕方が難しいと言う事になるのでしょうかね
どうしたら良いのだろうかと
神様を困らせてしまう様な事にもなりますね
神様にも安心して頂き
私どももまた救いを得る
その道が有るとすれば
それは私どもが土の心になると言う事だと言う事ですね
土の心を身に着けようと
そこに肚が決まった時に
私どもがその救いの道の入り口に立った
と言う事ではないでしょうかね
そこから様々な御教導が
神様がして下さると思うのですけれども
先ずはその土の心を身に着けようと
土の心で行こうと肚が決まった時に初めて
その真の安心の世界の入り口に立った
と言えるのではないでしょうかね
またそこからの精進は限り無いものであるでしょうけれども
その安心の世界に入る 真の助かりの世界に入る
その為には どうでも土の心で行こう
と言う肚決めが要ると言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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