今日も和賀心学 (2022-07-16)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
この天地金乃神様には一寸ひねた御教導をなさる所がある。二十四孝の筍掘りの話ではないが、ダイレクトにあそこに刀が埋けてあるよと教えれば良さそうなものだが、雪の積もった寒中に筍が食べたいと親が言う、その親の為にと寒中に筍を探し求める中に長年求め続けていた刀が見つかると言う親孝行な話。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 114頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
大酒大食するは絶食のもとになるぞ
信心がなくても誰でも合点のいく御教えだが
実行することは容易くて難しい
教祖の御教えとして改まって頂く時
容易う教えを血肉にすることの出来る教えである
実行することは容易くて難しい
と教えて下さいます
この何と言いますかね 信心と言うのでしょうか
この御道と言うのでしょうか
を実行する その事の容易さ 難しさと言う所が有りますね
容易いと言えば容易い 難しいと言えば難しい
その難しいと言うのか この神様は面白い神様だな
と言う事が分かれば 何となく見えて来る様な所も有りますね
それはこの神様は 私どもにいわゆるダイレクトに
何かを御働きを下さると言う事ではない所が有りますね
御性格と言えばその御性格なのかもしれません
師匠のお話の中に
二十四孝 親孝行の話が有りますね
それこそ寒い雪の降る 積もっているその寒中の中に
親が筍が食べたいと
未だこんな寒い中に筍など有ろうはずはない
それでも親が食べたいからと言うので
それこそ親孝行の息子さんなのですね 裏山に行って
その雪の中に 雪が積もっている中に筍がないかと探したと
そしたらそこに それこそ今までずっと探し求めていた刀が
埋けてあったのが見つかったと言うのですね
最初っから 刀はあそこに有るよと あそこに埋めてあるよと
教えて下されば それで良い様なものですけれども
ある意味何と言いますかね
天の邪鬼と言えば天の邪鬼
その筍が食べたいと そしてそこにそれならばと
未だ雪が積もっている中に親孝行の心を出して その筍を探す
とその筍を探すところに
今まで求めていた刀が見つかったと言う訳ですね
どうもこの神様にはこう言う所がお有りになる様ですね
何か別のものと言うのでしょうかね
神様の御心に適う様な何かをしていたら
そこに思わぬ今まで自分が求めていたものが与えられる
と言った様なそう言う御働きをなさる神様だと
言う事なのですね
昨日も実は或るビデオを探して居りました
一寸気になった事が有ったので
昔のビデオを探していたのですけれども
そうしましたら それこそもう何十年も前の
或るお教会と言いましょうか
ある先生の布教始めの頃の 8ミリ映像ですね
これをビデオにされたものが見つかりました
それでそれは それを探していた訳ではないのですけれども
ああ何か面白いのが有るなと思って見させて頂いて居りましたら
それはもう大変なお参りでした
それこそ立錐の余地も無いと言う様なお参りの有り様でしたね
で思わせられますのは それこそ布教間もない頃に
果たしてこれ程しの人がどうやったら集まるのだろうかと
それこそ言葉も余り分からない様な いわゆる現地の人ですね
勿論日本人も居られますけれども
その大勢 沢山は言葉も余り分からないだろう
と言う様な人達が沢山居られました
とてもいわゆる合楽理念
その先生が説かれる教えが広まって
それでそれだけの人がお参りがあっておる
とは思えない状況でしたね
教えに人が集まって来ると言う事ではない
何か別のもの おそらくあそこに行ったらおかげが頂けれる
願い事が叶う あるいは
神様の御働きをそこに感じてお参りして来て居られる
神様の御働きを おかげを
がやっぱり目当ての様な感じが致しましたね
それでやっぱり人が集まる
教祖様も おかげ 願う氏子におかげを授け
後に理解申して聞かせですか
そう言うところがこの御道には要るのだな
と言う感じが致しましたね
やっぱり師匠から教えを頂いて居ります
また御教導を頂いて居りますと どうしても教えを前面に立ててしまう
しかし人々が参って来るのは
教えを聞きたいから参って来るのではない
寧ろそこにいわゆるやっぱり神様のおかげを頂きたい
神様の何と言いましょうかね 生きた働き
その神様の生きた働きに触れたいから人々が沢山集まって来る
と言うのが本音だと言う感じが致しましたね
ですからこれは 神様がそれこそ ただ教えを説いて
その教えに惹かれて参って来る氏子と言うのは ほんの僅かだと
寧ろ神様のその
いわゆる霊験あらたかと言うのか
その生きた神様の御働きに触れる
そこにお参りをして来る人達が大部分だと
ですからそう言う働きをやはり現して行かねばならない
と仰って下さる その事を教えて下さってある様な感じが致しましたね
私の場合も何かある別のビデオを
実は探していたのですけれども そうしましたら
そう言うやはり教会と言う所には生きた神様の働きが
それこそ現れる そう言う所でなければ 先ずはならないと
ある意味人が集まると言う事においては
教えは二の次だと言う事になりますね
しかしその行く行くは
教えが本流になって行かねばならないのですけれども
行く行くはその教えを求めて それこそ真の信心を求めて
参り集る人達が多くなって来なければならないと言う事ですけれども
その初期においてはやはり
生ま神様と言うのか 生きた神様の御働きと言うのか
それに触れたい それを頂きたいと言う人達が
やはり沢山居られると言うのでしょうかね
そう言うものだと言う事を
改めて神様が教えて下さった様に思いますね
そこで昨日教えて頂きました
それこそ成行きの中に教えて頂きました事は
そのやはり生きた神様の御働き
それを前面に立てての 布教の有り方である
そしてそこに教えと言うものが 何と言うのでしょうかね
付いて来ると言うのか 行く行くは教えが本論と言うのでしょうかね
本題だけれども そこに至るまでには
また勿論教えと言う中にも生きた神様の御働きが それを感じさせる
感じさせて下さる教えでなければならない事は
勿論ですけれども
先ずは教えを抜きにしてでも 生きた神様の御働きを
感じれれる教会でなければならないと
この神様はそれこそ
ダイレクトに人を導こうとされるのではなく
間接的にと言うのでしょうかね
遠回しに人を導こうとされる神様でもあると言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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