今日も和賀心学 (2022-07-19)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
1日に百人千人なら人対人の取次ぎでも助ける事が出来るかもしれない、しかし万人以上となると人対人の取次ぎでは難しい、ブロードキャスティングの力を借りねばならないと思う。師匠大坪総一郎師が昔、テレビ番組で合楽の時間と言うのが出来て、その時間に番組を観る人達が助かられる時代が来ねばねと仰って居られた。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 338頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第48節
わが子の病気でも
かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ
言うことを聞かぬ時に
ままよと思うてほっておくような気になって 信心してやれ
おかげが受けられる
三男幹三郎 肉腫の診断があった時 心は平常であった
九十九パーセントだめ とのことであった
ままよ の心の発露であろう
おかげで奇跡的なおかげをうけた
後で思うのに もしこれが信者の子弟であったら
どうであったろうかと思う
我を殺して神を生かすか
神を殺して我を生かすか
この師匠のミニ御理解で
いつも思わせられる事ですけれども
後で思うのに もしこれが信者の子弟であったら
どうであろうかと思う と仰って居られます
これは我が子の場合と
御信者さんの子供の場合では違うと言う事ですね
なる程おそらく師匠は 我が子の場合は
死んでもままよ と言う心で居られたのだと思います
がしかし御信者さんの子供であったならば
それが 死んでもままよ と言う心では無かったと言う事ですね
それはそれこそ一心になって その命の継ぎ穂と言うのでしょうか
それをお願いされたのではないでしょうかね
だから何もかも一緒くたと言う事ではありませんね
その我が子の場合と御信者さんの子供の場合では
取次者の心と言うのでしょうかね
祈りがやはり違うものだと言う事ですね
人様の子供が病気で危ないと言う時に
取次者が いやそれでも死んでもままよだと
言う心ではないと言う事ですね
それではいけないと言う事を何か含んで居られる様に思いますね
やはり他所様の子供の場合には
必死にお願いさせて頂くと言う心が
やはりその助かりを願う心が やはりそこになければならない
有るのが当然だと言う事でしょうね
私どもの心と神様の御心の響き合いと言うのでしょうかね
その辺の所が ただ一緒くたには出来ませんね
ままよと教えて下さるから
何でもままよだと言う訳には行きませんね
信心の微妙な所 面白いと言えば面白い所が
その辺に有りますね
これは私どもの心が育つ
神心が育つと言う事でしょうかね
おそらく神様においても 神様が自分の子供が死ぬと言う事であれば
それはままよで受けられる事でしょう
しかし氏子の子供が死ぬと言う事をも
ままよで受けられるかと言うと そうではない
氏子の子供が危ないと言う時には
神様も必死になって助けようとなさる のではないでしょうかね
それが神心だと言うのではないかと思いますね
その私どもが助かる
人間が真に助かる
それは心の上に於いて助かる と言う事と同時に
形の上に於いても助かると言う
その 2つの事が有ると思うのですけれども
その信心による助かり
その為には心の上の助かりと 形の上の助かり
その両方がやはり相まって行かねばなりませんね
私ども人間 生身を持って居ります
形の 物の世界にも住んで居ります
ですから目の前に
その神様の御心が形となって現れる
その形となって現れたその神様の御働きに触れて
初めて神様の御心を感じて行く
そう言うのが普通ではないでしょうかね
阿吽の呼吸とか
以心伝心とか申しますけれども
なる程神様と私どもとが 最初っから信心初めて直ぐにでも
神様と以心伝心の間柄であれば 問題は無いのでしょうけれども
中々そうは参りません 神様の御心が分かりません
神様の御働きが分かりません
ですからその神様と私どもとの心の通い合いが
阿吽の呼吸であったり 以心伝心と言う様な世界に住まわせて頂く
その手前の方では
やはり形の上のおかげもまた大切であり
その形の上のおかげを通して神様の御働き
神様の御心に触れて行く事にもなろうと思いますね
とかく信心と言うと どちらかに偏りがちです
お願いをして おかげを頂くと言う生き方
或いは教えを聞いて
その教えを行じる と言った様な事ですね
よくその宗教の初めの頃は お願いして おかげを頂くと言う
いわゆる霊験あらたかな働きが現れる
そして段々その宗教が最後の方に 終わりの方に近付いて来ると
教えを説き出すと
その宗教が教えにこだわり出すと もういわゆるその宗教の終わりに
近付いている と言った様な事を言う方も居られますね
いわゆる霊験が現れなくなったから
教えで人を繋ぎ止めようとすると言う訳でしょうね
師匠の場合は
その教えと神様の働きとが対になっていると言うのでしょうかね
教えを行じれば 必ずそこに神様の働きが現れる
その教えに取り組む事によって いわゆる霊験も現れる
そう言う信心の世界ですね
私どもはやはりその霊験と言われる様な
神様の御働きを頂かなければ 神様を信じる事は難しい
ですからこの神様の御働きを目の前に感じる
その働きに触れる のと 御教えを頂き その御教えを行じる
この 2つが相まって初めて神様の御心に通う事が出来る
そして以心伝心と言う様な事にもなって来る
そこに初めて師匠が教えて下さる合楽世界
神様と私どもとが合い拝み合い 合い楽しみ合う世界
真実の助かりの世界と言うものが実現される
と言うのではないでしょうかね
どうでも神様の御働きに触れられる信心でなければなりませんし
それには教えを行じる事によってまた神様の御働きに触れられる
また神様が働きを現して下さる
そう言うものでなければならないと思うのですね
ですから遅ればせながら 今朝からですけれども
私はその様々なデバイスを通して その向こうで
そのデバイスの向こう側にでも神様の御働きが現れる事を
願わせて頂こうと思うて居ります
ざっくばらんに言うと 例えば百人 千人の人が助かる
それは教会にお参りして 実際に取次者に会って
そこで助かると言う事が出来ますけれども
1万人以上の人が助かる と言う事になると
実際に会ってお取次ぎを頂いて助かる
と言う事では埒があきませんね
もうそこになるとやはり
1万人以上の人が助かると言う事になると
そこに神様の御働きが現れる 為にはやはりその
ブロードキャスティングと言う物の力を借りねばならなくなりますね
師匠がそれこそテレビででも さあ今から合楽の時間が始まる
と言って テレビ放送をして そこに人が集まり
その合楽の時間と言うテレビ放送を見て聞いて
そしてそこで人が助かる
病人なら病人が治る
難儀な人なら難儀の人がおかげを頂く
そう言う時代にならなければならないね
と仰って居られた事が有ります
より多くの人が助かる為には
やはりブロードキャスティングと言うものも必要だと
そしてそのデバイスの向こうで
向こう側にも神様の御働きが現れる様な
そう言う祈りが
また要ると言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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