2022年7月27日水曜日

人の助かりは、神様の懐の中にある事を実感するところから得られる (2022-07-27)

今日も和賀心学 (2022-07-27)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


人の救いは助かりはどこから得られるのだろうか。私の先ずの救いは、まさかの折りは親先生、大坪総一郎師にお願いしたら何とかして下さると言う救いだった。それから、神様がいつも側で見守り導いて下さって居ると言わば神様と二人三脚、或いは神様の懐の中にある事を実感しての救いを感じる様になった。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 362頁)


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合掌

中原博信

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御理解 第56節




日にちさえたてば世間が広うなってゆく

ひそかにして信心はせよ




例えば むつや呉服店の場合

親が亡くなられたのは社長がまだ二十歳頃のことだった




また次々と難儀が続いた 不幸が続き

店の上にも むつや騒動と言われる程の事件が持ち上がった




もう むつやは仕舞えた という風評もたった

その中を日々のお取次を頂いた




親先生はいつの場合も

信司郎さん 大きくなることばい豊かになることばい




唯 この一言だった 堪え難いところを神様にすがって堪えて来た

十数年後の今日のむつや呉服店の繁昌につながった




久富繁雄氏の場合も同じである 数十年の信心の中に

ただ良い事ばかりではなかった さまざまな難儀な事も続いた




地蔵の徳 と言われ

土の信心に徹せよ と教えられ




これに徹した

いよいよ素直な信心も育った




親戚の者にも 金光様 金光様と逆上せておる

と言われた時代もあった




そこを土の心で受け抜かれ

今日の久富一家一門のおかげと繁昌がある




このミニ御理解で二人の方の助かりの様子が

語られていると思いますね




私ども人間が助かる 救われると言うのは

どう言う時にその助かりを救いを感じるのだろうかと思います




私どもの願いが願い通りに事が運んだ時

願いが成就する時 その時に助かりを感じるのだろうか




そう言う事も有るでしょうけれども

そこには真の助かりとは言い難い所が有ると思いますね




何故ならば私どもの願い通り

思い通りになる事は少ないものだからですね




願い通りに 思い通りにならない時でも助かって居られる

居れれる助かり様と言うのでしょうかね




そう言う真の助かり 心に平安を頂けれる

それはどう言う時だろうかと 今朝その事を思わせて頂きます




やはり私どもが助かると言う事は

そのどう言う何時如何なる中にあっても神様から守られて居る




言わばその神様と二人三脚だ

神様が何時も側に居て下さる




見守って居て下さる 私を導いて下さる

と言う神様を身近に感じる




そこに助かりを感じるのではないでしょうかね

そしてそこに行く その前の段階がやはり必要ですね




いきなり人々が神様をそれこそ神様と二人三脚ですと言う

そこに至る前 までのやはり精進 信心と言うのが有ると思いますね




いきなりサンパチ信心を始めた

そしたらもうすぐに神様をそれこそ身近に感じる様になった




と言う訳にはいかないでしょうからね

段階がやはり有ると思います




私はやっぱりその信心をさせて頂き

安心と言うのでしょうか 助かりの光を見たと言うのは




やはり師匠ですね

何かあったら この親先生にお届けしたら何とかなる




と言うそれが私の助かりの一つでしたね

ですからまさかの時には この方に頼めば大丈夫だと




何とかして下さる と言うのが私の言わば助かり初め

と言うのでしょうかね 光でしたね




この今日 ミニ御理解に有るお二人の事

この方達もやはりこれは そこに師匠があられた




お届けをする 話を聞いて

そしてまた御理解を下さる師匠が居られたからこそ




初代親先生が居られたからこそ 助かって行かれた

通れない所も通って行かれたのだと思いますね




そのやはりこれはある意味頼りになる取次者

そのこの人にお願いすれば大丈夫 何とかして下さる




それこそ通れない所も通らせて下さる

と言った様な そこに先ず助かりを見い出すのではないでしょうかね




そしてその許で信心の稽古をさせて頂いて行く中に

なる程神様が直ぐ側に居って下さる




神様が共に歩いて下さっている

と言うのでしょうかね




同行二人と言った様な 或いは二人

神様と二人三脚と言った様な そう言うものを感じさせて頂く




そこに初めて どう言う中にあっても

神様が一緒に居て下さると言う救いを感じる事が出来る




と言う事になって行くのではないでしょうかね




先ずは何と言いましょうか その御縁を頂き

なる程この方にお願いすれば お届けすれば助けて下さる




と言うそこに縁を頂く事




そしてそれがそこで信心の稽古をするうちに

愈々神様の御心に触れ




また神様が何時も一緒に居て下さる

と言うものを実感する




そこにまた助かりを 救いを見い出して行く

と言う事になるのではないでしょうかね




どうでも私どもが真の救い

真の助かりを頂けれる様な




なる程神様に守られておるな

神様から導かれているな




と言うものを どう言う難儀な中にあってでも感じれれる様な

信心の稽古をさせて頂きたいものですね




その神様の御働きを感じる為の先ず第一歩が

棚からぼた餅ではありませんからね




やはり師匠が教えて下さる 成行きを大切にする そこから

神様の御働きを実感する信心の稽古が出来ると言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます


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