今日も和賀心学 (2022-09-26)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
宗教や信仰と言うと、ご利益信心であったり、教えを頂き行じる事等が取り沙汰され、教えに重点を置く方が何か程度が高い様に思われて居ると思う。今朝頂く事は、大切な事は天地金乃神様と私どもとの信頼関係であり、その心と心の触れ合いだと。ご利益も御教えもその心の触れ合いの為に有るとも言えよう。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 132頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
若い者は本心の柱に虫を入らせなよ
信心は筋金入りでなければならぬ
筋金には虫も寄りつけぬ
目もと口もと耳もとに御用心
信心の心で見ること聞くこと味わうことです
俗には「見ざる言わざる聞かざる」と申しますが、
信心する者は見ても聞いても迷うことがあってはなりません
見ても聞いても迷う事が有ってはなりません、と
これは一心を立てると言う事でしょうね、
どこに一心を立てるのか、それは勿論、
信心の一心、神様を信じる心と言う事だと思いますね、
とかく宗教とか、信心とか申しますと、
いわゆる信仰的行事と言いましょうか、
拝んだり、お参りをしたり、そう言う風なものと、
また教えを頂く、教えを行じると言う様な事が有りますね
そして段々信心の稽古をさせて頂くと、
どちらかと言うと教えに偏ってしまう様な所が有ります、
そのまた教に偏る所と、
もう一つはそのいわゆるご利益、
教えが無くて、ただお参りをする、御用をする、
そしてご利益を頂く、とご利益のみの所も有りますね、
その 2つが相まって行かねばならない訳ですけれども、
とかく教えに偏って来ますと、
ご利益信心は低級だと、低級視したり致しますね、
そして段々ご利益が頂け無くなって来る、
愈々信心と言うと教えだと、教えに取り組む事だと、
教えの方に偏ってしまう、
これでも余り良いとは言えませんね、
今朝教えて頂きますのは、その教えに偏ると言うのでもなければ、
ご利益に偏ると言うのでもない、
その中間とでも言うのでしょうかね、
その神様の御心、神様の心に通うと言うのでしょうか、
師匠は、大坪総一郎師はよく、
天地とのコミニュケーションと仰って居られました
そのやはり神様と心が通う、と言う事が第一に為さねばならない、
第一に置かれねばならない、と言う事ではないでしょうかね、
この迷う事が有ってはならない、と
それは何故迷うのか、神様との心の触れ合いが無いからですね、
信じ、信じられる、
信じ合う仲と申しますね、
それは相手の人が、私の事を信じてくれている、
そしてまた私も相手の人の事を信じている、
その信じ、信じられる間柄、
その間柄が揺るぎが無いから、迷う事が無い、
ところがこれが、あの人は信じているのだろうか、
信じてくれて居るのだろうか、
と言った様な疑いの心と言うのでしょうかね、
そう言うものが起こって来ると、迷いが起こって来ますね、
それは何故か、
そのお互いの心の通い合いが無いからだと思いますね、
表面的な付き合いであったり、いわゆる損得の付き合いであったり、
そう言うものであるから、愈々の時に信じる事が出来ない、
信じると言う事にも 2つ有る様ですね、
英語ではビリーブと言われたり、トラストと言われたりしますが、
内容が若干異なる様ですね、
それはどちらかと言うと、
あの人の言った事が本当である、と言う事を信じる、
と言う信じ方ですね、
ともう一つは、あの人がする事、行う事は本当かどうかは分からない、
けれどもその人本人を信じる、と言う信じ方ですね、
その人の言った事が本当かどうかを信じる、
と言う信じ方、
それとその言った内容は問題ではない、
その人本人を信じる、と言う信じる、信じ方ですね、
私どもの場合、勿論神様を信じる、
神様がどう言われるか、そこに問題ではなく、
神様そのもの、その人本人を信じる、
と言う信じ方でなければならない事は勿論ですね、
ビリーブと、トラストの違い
と言う事になるのでしょうけれどもね、
そのいわゆるトラストする、その人本人を信じる、
本人に信頼を置く、と言う事は
やはりそこにお互いの心の触れ合いと言うものがなければ、
そう言う信頼関係と言うのは出来ないと思うのですね、
ですから神様と私どもとの間にその信頼関係が生まれる事、
その信頼関係が築かれる事がやはり大切だと言う事なのですね、
勿論その信頼関係を築くと言う上において、
ご利益を頂くと言う事もまたその一助となる事でしょう、
教えを守ると言う事、教えを聞いて、教えを守ると言う事も
その信頼関係を築く上での一助となる事でしょう、
しかしそれらは何れもその過程に過ぎない、
手立てに過ぎないと言う事ですね、
一番神様と私どもとの間でなされねばならないもの、
目指す所は、
神様と私どもとの信頼関係が築かれる、
と言う事がなされねばならない
そこにはやはり神様と私どもとの間の、心の触れ合い、
心の交流、と言う所を目指しての信心でなければならない、
またそれが為されねばならない、
と言う事でも有りますね
どうでも天地金乃神様と私どもとの間の心の交流、
心の触れ合いを求めての信心でありたい、と願いますね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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