2022年9月7日水曜日

人中心の生き方から神様中心の生き方へ (2022-09-07)

 今日も和賀心学 (2022-09-07)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


人間が人間中心の社会を創り上げようとしたところに様々な悲劇も生まれて来たのではなかろうか。人間もまた、大宇宙の構成員の一粒として神様中心の生き方へとその意識が育つとき、人間としての真の幸福も許されるのではなかろうか。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 108頁)


ビデオ: https://youtu.be/BvkvxpRALHM

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/09-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-09-07.mp3


合掌

中原博信

(ブログ): https://wagakokology.blogspot.com

(Blog-en): https://wagakokology-en.blogspot.com

(ホームページ): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/

(ポッドキャスト): https://anchor.fm/wagakokology-jp

(初代/ポッドキャスト番組名): 大坪総一郎師御理解集

(初代/ポッドキャスト): https://anchor.fm/wagakokorogaku

(初代/ポッドキャスト番組名): 大坪総一郎師御理解集 第2集

(初代/ポッドキャスト): https://anchor.fm/wagakokorogaku-2

(スカイプ会議リンク): https://join.skype.com/ZrgSr5pB6gvS

-------------------------------------------------------


御神訓




神信心のなき人は

親に孝のなきも人の道を知らぬも同じことぞや




御理解に『昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃ

という者でも、だんだん不幸なことが重なって、世間では、




どういうものであろうというようなことがあろうが、

なにほど人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと




神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ』

と教えられるように、




道徳的観点から言う人の道、

又は孝の道とは自ずと内容の違ったものである




天地に通う道、

真の親孝行の道がついてくる




因縁に苦しむことなく罪悪にとらわれることなく、究極、

金光大神の世界、喜びの世界を究めてゆけるのが御道の信心である




金光大神の世界と、

金光大神の世界、これは師匠が教えて下さる合楽世界、




神と人とが合い拝み合い、楽しみ合う世界

と言う世界だと思うのですね




その何と言いましょうかね、

また師匠は天地に通う道とも教えて居られます




人間の歴史が何千年何万年と言うのでしょうか、

その間に私どもの生き方と言うのでしょうかね




それは人間中心の生き方、或いは、

ある特定の人々を中心とした生き方と言うのでしょうか




やっぱりそれは人間中心の生き方ですね、

そこをどこまでも追求して来たと言うのでしょうか、




求めて来た、そこに様々な悲劇と言うものが

生み出されたのではないでしょうかね




人間が真に助かって行くにはどうしたら良いのだろうか、

それこそ万人が、誰でもが助かって行く




それはどうしたら良いのだろうかと思いますね、

このやはりそれは天地に通う道でなければならない




人間がそれこそ人間を中心とした自分達だけの考え

と言うのでしょうかね、




そこに走る時にやはり悲劇が繰り返される、

やはり人間としてと言うのでしょうか、




それも天地にある、まあ自然界と言うのでしょうかね、

何と言ったら良いのでしょうか、




兎に角この全宇宙とでも言うのでしょうかね、

その中の一つの構成物として、やはりその中の一つとして、




何と言いましょうか、振る舞う時と言うのでしょうか、

その天地の間の一つのまぁ一人類としてと言うのでしょうかね




神様の御働きの中の私どもとして、

ただ私ども人類、人間だけが幸せになれば良いとか、




人間人類だけが上手く行けば良いとか言う事ではなく、

その宇宙全体と言うのでしょうか、




それはこの世、あの世を通してと言う、もっと大きな、

私どもが想像もつかない様な世界の中にある一粒の私どもとして




どうあるべきなのか、と言う時に、

それこそ人間中心の生き方から、神様中心の生き方




創造主と言われますね、

その私どもが自分勝手に、自分で生きて居る、




そして自分達の世界を作り上げたい、

人間の世界を作り上げようと、




ある意味、我を張るところに、

何かしらそぐわない悲劇の様なものが起こって来る様に思いますね




もっと人間中心の生き方から、神様中心の生き方、

それこそ天地の道に通う生き方に、私どもの心が変わり、




そしてまた私どもの振る舞いもまたそう言う振る舞いになる時に、

初めて人間の真の幸せと言うものが許されるのではないでしょうかね




兎に角私ども中心、人間中心の考え方、

そこから何か悲劇が生まれて来ていると




もっと私どもは大宇宙とでも言うのでしょうかね、

その中の一員であり、その中の構成員の一つとして、




どうあらねばならないのか、

それは勿論やはり神様中心の生き方と言う事になりましょうね




その神様中心の生き方になる時に初めて、

人間としての幸せもまた許される




と言う事ではないかと思いますね

一寸分かりにくい様な話かもしれませんけれども




かいつまんで言えば、

人間中心の生き方では、人間の幸せの世界には行き詰まる、




と言うのでしょうかね、

やはり悲劇が生まれて来る




ですからどうでも神様中心の生き方、

それこそ人類の全てが神様中心の生き方になった時に初めて、




総人類としての幸せが許される、

その様な感じが致しますね




先ずは私どもの所から、神様中心の生き方へと、

その生き方を変えさせて頂く




意識の上で、少なくとも自分中心の生き方、

人間中心の生き方から、神様中心の生き方へと、




その意識を変えて行く事が、

先ず第一ではないかと思いますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



0 件のコメント:

コメントを投稿