今日も和賀心学 (2022-09-06)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
信心は有難くなる稽古と教えて頂くが、今朝は、信心は感謝と頂いた。信心が無くても願いが叶ったときには有難いと思う。有難いと感謝とは別物だと言う事。その願いを叶えて下さったのは天地金乃神様だと分かったとき感謝の心が湧いて来る。更に真の信心をさせるのが神への御礼ぞと言う御礼の信心となる。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 64頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
食物はみな
人の命のために天地乃神の造り与えたまうものぞ
何処の誰にでも通用する
普遍性に富んだ御教えです
神と人との交流がスンナリと出来、
御礼の言い合いを感ずるのが食物であります
神のお恵みと人間氏子の労力がこめられたものだから、
有難く感謝の心で食すべきだけれども、
そのことを忘れて不足が出たり、
食べすぎ飲みすぎでおかげを落してしまう
ここを忘れんようにすることが、
信心の大事なところです
有難く感謝の心で、
と師匠が教えて下さいます
今朝は心中祈念の時にこの感謝と言う事を頂きました
信心は有難くなる稽古と教えて下さいます
その有難くなる、有難い、例えば自分の願い事が叶う、
何でも上手く事が運ぶ、それで有難い、と感じる
その有難くなる稽古だと、
おかげを頂いて有難い、と有難くなる稽古
それこそ、この事によって心を磨く事が出来る、
心を育てる事が出来る、と今まではとても有難くない、
嫌だなと避けて通りたいと思うていた事でも、
その事に有難いと思える様になる
そして今日頂きますのは、
その有難いと頂く、思う、そこからもう一歩進んで、
感謝と言う所まで行かなければならない、
と言うのでしょうかね、感謝の心と言う訳ですね
有難い、
それは自分にとって都合の良い事が起こって来れば有難い
そしてその自分にとって都合の良い事を、そうして下さった、
差し向けて下さったと言うのでしょうかね
そう起こして下さった相手の方、これは神様と言う事になりますね、
そう差し向けて下さった神様への感謝の心
ただ自分が有難いと言うだけではなく、
そうして下さった神様への感謝の心、御礼ですね、の心を待つ
そしてまたその御礼の心が形となって表れて来る、
そこまで私どもの心が育たねばならないと言うのですね
その有難うございます、
と申しますね
その有難うございますと言うのは、
やはり誰かに感謝の心を伝えていると言う事ですね
その有難い、から
有難うございますへと、何ですかね、
そこまで高められると言うのでしょうか、
進むと言うのでしょうか、育って行かなければならないと
この師匠のミニ御理解にも、
有難く感謝の心で、と有ります
有難い、と感じる心、それと、有難うございます、
と感謝の心を表すとはまた違いますからね、厳密に言うと
ただ有難い有難いで終わってしまっている、
と言う事がないでしょうかね
よく言われますね、神様にお願いをした、おかげを頂いた、
ああ有難い、そして今度御礼に行こうと思っているけれども、
それが一週間経ち、10日経ち、する内に、
まあこの次でいいやと
段々、そのまたその内に、
何か都合で行った時に御礼に行こう、
と 1ヶ月経ち、とうとう御礼に行くのを忘れてしまうと言うのか、
もう御礼参拝と言う事が無くなると言う事ですね
有難いと思ったら、即、有難うございます、
とそれこそ神様に感謝の心を、何と言いましょうかね、
示すと言うのでしょうかね、
そう言うものが要るようですね
有難いと、有難うございますと言うのには
微妙な違いが有ると言う訳ですね
それが有難いから、
有難うございます、と言う神様への感謝の心が表される所まで
私どもの心が育たねばならない、
と言う事でもありますね
その有難いと感じる心は、割りと頂き易いのかもしれません、
しかしその事が神様のおかげで、有難い心を頂いた、
と言うその有難いと言う心を頂いたのは、
神様のおかげだと言う事に気付き、
神様への感謝の心、神様有難うございます、
と言う心が育って来なければならない
そしてその神様への御礼は何かと言うと、
教祖様が、習うた事を人に伝えて、
真の信心をさせるのが神への御礼ぞ、と仰って居られますね
なる程神様のおかげを頂いて有難いと思う、
そして神様に感謝の心が湧いて来る、神様有難うございます、
ならばその有難うございますを、普通で言えば、
何か手土産の一つでも持って御礼に伺うと言う事でしょうけれども、
神様への御礼は、そのおかげを受けた事を人々に伝えて、
またその人々にもその神様のおかげを頂いてもらう、
そしてその人々がまた神様への御礼の心を、
まぁ湧いて来ると言うのでしょうかね、
そう言う神様への感謝の連鎖が出来て来て初めて
人々が助かって行く事が出来る
この御道によるおかげを頂く、神様のおかげを頂くと言う事が、
より多くの人々にも伝わって行く事が出来る、と言う事になりますね
ただ自分だけが有難い、
で終わっていたのではそこ止まりだと
正にマイホーム的な信心で、
自分の家だけの有難いで終わってしまう
それを神様への御礼の心、感謝の心が湧き上がって来て、
その神様の、への感謝の為の、御礼の為の精進、
それこそ、人様に、神様の御働きを伝えて、表し真の信心をさせる、
伝える、真の信心を人にもして頂く、それが神様への御礼だと
そこに至った時に初めて、助かりの連鎖と言うものが、
人々の間に出来て来るのではないでしょうかね
より多くの人々が、次から次に助かって行く為には、
それこそ教祖様が教えて下さる、
真の信心をさせるのが神への御礼ぞ、
と言うその御礼心を持って真の信心を人々に伝えて行く、して頂く、
そう言う感謝の連鎖と言うものが要ると言う事ですね、
またそこまで私どもの心が高められねばならないと、
ただ自分が有難い、
そこで止まったのではいけない、
そこから感謝の心が出て来て、その感謝の心を人々に伝えて、
真の信心をさせる、それが神様への御礼ともなると言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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