2022年9月9日金曜日

道の教えの行者となろう (2022-09-09)

 今日も和賀心学 (2022-09-09)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


道の教えの行者。人が真に助かる為には3つの柱が要る。天地金乃神様のおかげと言う御働きを頂く事。師匠大坪総一郎師のより真実の教えを聴き合点する事。この2つだけでも結構助かるが愈々の時は助からない。更にその御教えを行じる事。自らが教えを実行する事によってしか助からない世界が有ると言うこと。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 201頁)


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合掌

中原博信

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御理解 第3




天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、

神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、




方角日柄ばかり見て無礼いたし、

前々の巡り合わせで難を受けおる




この度、生神金光大神を差し向け、

願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、




末々まで繁盛いたすこと、

氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす




親のふところにありながら親のふところにあることを知らず、

不安焦燥の生活をなして居る状態は、




天地金乃神として、又親として、みるにみかね給うところから、

生神金光大神を差し向け、親子共々の繁栄、幸せを願われたものである




その不幸の第一は、人間氏子の見当ちがい思いちがいの生活が其の

原因をなしておると指摘し、メグリの根絶を願われたものである




どこに難儀のもとがあるかを知り、

親のふところにある子供のような安心を頂かねばなりません




昭和44720日、朝の御理解を参照




天地金乃神と申すことは、と

天地金乃神様が、教祖生神金光大神様に、




難儀な氏子を助けてくれと頼まれ、

そしてその願いを受けられ、人が助かる事となったと




その人が助かると言う事、

私どもが助かると言う事、




なる程困った事が有る、

困り事を誰彼から助けてもらう、そして助かる




またの御教えに、この方の道は話を聞いて助かる道じゃ、

とも教えて下さいます




その私どもが助かると言う事には

それこそ神様から、それこそ教祖様のお取次ぎを頂き、




あるいは取次ぎの先生の取次ぎによって、

神様のおかげを頂く、そして助かる




と言う、いわゆるおかげを頂いて助けてもらう、

あるいは助かる、と言う助かる世界が有りますね




それとまた、話を聞いて助かる道と言われる様に、

話を聞いて助かる、と言う事も有ります




今まで難儀だと思っていた、それが話をよくよく聞くと、

なる程これによって心を磨く事だと分かる




そして今までの難儀が、実は難儀ではなかった、

難儀と思うていたのは私の考え違いであったと




これは本当は、

神様が私どもの心を育てようとする愛の現れであった、




愛の鞭と言う様な事を申されますけれども、

正にその愛の鞭であったのだと分かる




そしてなる程そうだったのだと合点が行く、

そう言う助かり方も有りますね




心が本当の事が分かるから、

それで助かると言う助かり方です




しかしこの 2つだけでは助かりようの無い事が有ります

なる程困った時に人から助けてもらって助かる




自分の願い事が叶わない時に誰かに助けてもらって願い事が叶う、

そして助かる




あるいは自分の思い違い、

考え違いを正してもらって、




なる程これが真実だと言う、

より真実の事を分からせてもらい、合点して助かる




これだけでは人の助かりにおいて

十全の助かりとは言えないのですね




そのもう一つ、助かる為の手立てと言うのでしょうか、

それを講じなければ人は助からない




それは何かと言うと、

教えを行じると言う事ですね




その言わば御教えを行じると言う事がなければ、

人が本当に助かると言う事にはならないのですね、残念ながら




話を聞いて、なる程これが真実だと、真実の事を教えてもらい、

助かった様に有るけれども、




また何か問題が起こって来る、

そうするとまた心の中にもやもやとしたものと言うのでしょうかね、




助かりとは程遠い心が起こって来る、

それは教えを行じていないからですね




では教えを行じると言うのはどう言う事かと、

言う事になりますけれども




そうですね、スポーツならスポーツで、それこそ体力を作る、

体力を作る為に何かを行じると言えば、走り込んだり、




色々な事が具体的に体の運動が有りますね、ですからその体の運動を

する事によって、スポーツ選手が作って行く、作り上げる、




と同時に私どもいわゆる信心をさせて頂いて助かろうと言う者は、

心の運動と言う事になりましょうかね




心の運動、

その教えを行じる




それこそ願い事が中々叶わない、欲するものが与えられない、

そう言う時に、これは私が欲している事が間違いではないかと、




思いを変え、その欲する事を、これは私の我情我欲に違いない、

だから神様が叶えて下さらないのだ、




これは私の欲している事を無くさねばならないなと

自分の欲を放すと言うのでしょうか、




そう言う事にならねばなりませんね、

欲を放す稽古を、心の運動の稽古をしなければなりません




それが教えを行じる

と言う事の一つではないでしょうかね、




こう言う心が有ったのでは、神様から嫌われてしまう、

と言う心に気付かせてもらったら、




その心を改まって行く、欲を外して行く、心を改まって行く、

それが心の運動であり、教えを行じると言う事ではないでしょうかね




その教えを行じる、言わばこの道の行者となる、

その行者とならなければ助からないのですね




いつまでもその叶わぬ願いを持ち続ける、

確かに願い続けると言う事は素晴らしい事です、




それが神様の御心に適う願いであるならば、

それは持ち続ける、貫くべきですけれども、




それが神様の御心に適わない、通わない願いであるならば、

これはもうスッキリ捨て去らねばなりませんね




その見極めが大切ですけれども、

これは神様から許されない欲だな、と言うものを感じたら




スッキリその欲を外す、

その事を行じて行かねばなりませんね




その御教えを行じなければ、欲なら欲を、

外すべき欲なら欲を外して行かなければ助かりません




人が真に助かる為には、

神様のおかげを頂いて助かって行く、




教えを頂いて助かって行く、と同時にまた

自らが行じる事によってしか助からない事がやはり有るのですね




これは神様でもどうしようもない、

教えを聞いても、それ以上に助かる事は出来ない




そこは自らが行じて行く以外、助かる道は無いと言う事ですね

道の行者になる、教の行者になると言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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