今日も和賀心学 (2022-09-01)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
信心は有難くなる稽古と教えて頂く。その有難さが、自分に都合の良いおかげを頂く事に終始していたのでは本当の有難い心は育ち難い。教祖様が、天地日月の心になる事肝要と教えて下さるその天の心、地の心、日月の心を身に着ける事の為の家業の行と焦点が定まる時初めて真の有難い心が育つ素地が出来る。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 310頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第39節
此方の行は水や火の行ではない
家業の業ぞ
生活そのものが行ではなく、
その内容如何である
生業が生活の為でなく、生かされてある自覚が神恩報謝の真となって
はじめて家業の行と言えるのです
只、忠実に働くというだけではありません
今朝、戎浦さんから電話がかかって来ました
或る病院に勤めておられます
院長先生が大変ひどい方らしいのです
そのために従業員の人達が長く続かぬような始末です
その事で毎日、不愉快な日日でした
二、三日前より思いを変え、
院長の言われることをそのまま親先生の言われることだと
思い頂く心になりましたら、
毎日が楽しい有難いものになりましたというのです
この頂き方こそ、正しく家業の行というのではないでしょうか
信心をする、何故信心をするのか、
やはり一番最初の取っ掛かりと言うのでしょうか
それはおかげを頂きたい、その自分に都合の良いおかげを頂きたい、
と言う所から入るのだと思います
そしてそれはそれで結構だと思うのですけれども、
その自分に都合の良いおかげを頂く、
と言う事だけに焦点を置いた信心では、中々有難くはなれませんね
そう何時もかつも自分の思い通りになると言う事が無いからですね
確かに偶には良い事になるのかもしれませんけれども、
思い通り、願い通りになると言う事は、
人生の上に置いて中々少ない
しかしまぁ取っ掛かりは
その自分の願いが叶うと言う事でしょうけれども、
そして教祖様も、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、
と教えて居られる、また、話を聞いて助かる道とも教えて下さる
そのおかげ目当ての信心から、そして御理解を、お話しを頂くうちに、
本当の信心とはおかげ目当てだけではダメだと、心直しの神だと、
心を直す事に焦点を置く事だと言う事が段々分かって参ります
師匠大坪総一郎師も、信心とは有難くなる稽古だと教えて下さいます
そのいわゆる有難くなる事、
さあどうやったら有難くなれるかと、言う事ですけれども、
ただ自分の願い事が叶う、自分の、自分にとって都合の良い様に事が
運ぶことだけに焦点を置いておきますと、中々有難くなれませんね
尤も一日千回、三千回とか、一万回、十万回とか
有難うございますと言う稽古という様なものも有りますけれども、
それこそ何ですか、空気にお礼を言ったり、お水にお礼を言ったり、
水のおかげで、空気のおかげで、或いは目のおかげで、耳や口や歯や
それこそ私どもの五体、肉体、
或いは様々なその人々のして下さる事、
色々な事に有難い事を見つけようと致します、
そしてお礼を言います、それは確かにそうです、
そうやって有難くなる稽古は出来ます、
けれども何か物事が起こって来る、嫌な事が起こって来る、
その嫌な事が起こって来た事柄にもお礼が言えれれる様な
そう言う私どもの心が育たねばなりませんけれども
なる程私どもをいわゆる益してくれる、物や人や自然界の
色々な物に対してのお礼は言えても、
それこそ嫌な事、私どもが嫌だなと思う事、その嫌だなと思う事に
対してまでお礼を言えると言う心は中々育ちませんね
物であったり、人であったり、様々な事柄、
その事柄にもお礼が言えれれる様な心が育つ、
どうしたらその事柄にもお礼が言えれる、嫌な事柄、こんな事は
起こって欲しくないと言う事柄にもお礼が言えれる様になるか、
家業の行と教えて下さいます、家業の行、
その行は何の為の行なのか、日々の行が何の為の行なのか、
私どもの願いと言うのでしょうか、焦点と言うのでしょうか、
それが自分に都合の良い事が起こって来る、
いわゆるご利益を目当ての信心から、
心を育てる、
教祖様が、天地日月の心になること肝要なり、と仰せられる、
その私どもの日々と言うものが、
その天の心、地の心、日月の心を身に着ける事、
いわゆる心を育てる事、神の心を心とする、
神様の心を私どもの中に育てる、と言うのでしょうかね
私どもの中に有る神心を愈々育むと言うのでしょうかね
その天地日月の心を身に着けよう、その為に一生が有るのだ、
とそこに焦点が定まりませんと、中々嫌な事は嫌な事で終わってしまう
その嫌な事を通して、天地日月の心を、
この事で天の心を、地の心を、日月の心を育てるのだ、
と私どもの一生と言うのでしょうか、が
そこに焦点が定まる事が先ず第一だと思いますね
その心を育てる事に焦点が変わらなければ、
お金や物や名誉や地位や、そこに焦点が有ったのでは、
本当の有難いと言う心が
湧いて参りませんね
家業の行、その家業の行の行の内容、
それは天地日月の心を作る為の、育てる為の家業の行である、
と言う事に心が定まらなければならないと言う事ですね
そこに定まらなければ、有難く成る稽古と言っても
自分に都合の良い事だけを有難がる、そう言う行では、
いつまで経っても本当の有難いと言うものは頂けませんね
私どもの何と言いましょうかねぇ、生きる目的と言うものが、
天地日月の心を体する事、心を育てる事、
とそこに焦点を定めなければならない、
と言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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