今日も和賀心学 (2022-09-25)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
今朝は、人間中心の生き方から神様中心の生き方へと教えて頂いた様に思う。かと言って世捨人になって何もかも人間性を捨ててしまうと言う事ではない。その神と人間の間にある生き方と言えるかも知れない。神様の御心を大事にさせて頂きながら人間社会で生きて行く生き方とも言えるかも知れない。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 182頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
悪いことを言うて待つなよ
先を楽しめ
真の信心をしておりますと、
よいこと楽しいことだけより他に思わぬようになります
取り越し苦労や悪いことばかり心に浮かんで来るときは、
信心をまちがえておる時、修行の足らぬ時と悟り、
そこからの信心をさせていただかねばなりません
悪念邪念を祓うものは、真に有難しの心以外にありません
悪念邪念を祓う、と仰って居られますが、
私どもの中にそれこそ知らず知らずの内に、
その悪念邪念とままでは行かずとも、
囚われた何かと言うのでしょうかね、
何かに囚われると言う事が有りますね、
その囚われた何かから私どもの心が解放される、
と言う事がやはり大切だと思いますね
昨日はある今までの成行きから、そのいわゆる請求書ですか、
クレジットカードの請求書であったり、
色々な電話代の請求書であったり、
そう言うものが送られて来ますね
今までは紙のものが送られて来たのですけれども、
これからはそれをペーパーレス、
いわゆる紙の請求書を廃止する
と言う方向で世の中は進んで居りますね、
私もそれに便乗させて頂き、昨日その手続きを、
クレジットカードとか、電話代とかの請求書を、
そのもういわゆる郵便では送って来ない、
ペーパーレスの手続きをさせて頂きました
そして、あぁこれで一つ解放されたな、と思うのですね、
いわゆる私を縛り付けていたもの、これは何と言いましょうかね、
その物理的に請求書が、手紙が送られて来ますから、
そこに住所がなければならない、
そこに居なければならない訳です、
誰かが居なければならない、
ところがペーパーレスとなると、紙の手紙が送られて来ませんから、
そこに居る必要が無くなる訳です
住所は住所として有って良いのですけれども、
そこに必ずしも居る必要が無くなる、
オンラインですから、何処に居ても良い訳です、
何処ででも請求書を取れる訳です、
支払いさえきちっと出来れば、
必ずしもそこの場所に居る必要は無い訳です
また住所を変更すると言う事も要らない訳ですね、
これは今ある所から、言わば囚われているそこから解放されて、
自由に何処へでも行ける、と言う事を意味するのですね、
これには色々な意味が有りますけれどもね
今朝はその私どもが、
人間中心の生き方に拘泥していると言うのでしょうかね、
そこに囚われている、確かに信心をさせて頂くと言う事は、
人が助かる、私どもが助かると言う事が第一であり、
神様の願いも、
人が助かると言う事が第一で有りますけれども、
だからと言って私どもは人間中心の生き方、
と言うものに、まぁ囚われている所が有りますね
この人間中心の生き方から、神様中心の生き方へと
変わって行かねばならない、と今朝は教えて頂くのですね、
しかしその神様中心の生き方に変わると言っても、
いわゆるオンリー神様と言う訳でもないと、
そのとかく私ども、極端から極端になりがちですね、
人間中心であったものが、神様中心と言うと、
何もかも神様中心だと、
そう言う事でもない、
言わば人間中心と、神様中心との、
まぁ傾きは神様中心だけれども、
人間である部分もまた人間である部分を生かして行く、
と言うのでしょうかね、
中庸の生き方とも申されますけれども、
その人間中心と、神様中心と、その間に有ると言うのでしょうかね、
極端から極端ではない、
その間中に本当は、本当の生き方が有るのですね、
神様と人間との間、
その間に人間の真の助かりの世界が有るのですけれども、
この辺が難しいと言えば
難しいのかもしれませんね、
神様中心の生き方と言うと、何もかも、何もかもが神様オンリーだと、
言う事に聞こえますけれども、そうとばかりは言えない、
ですから御神意、寧ろ神様の御心を大切にした生き方、
と言い替えた方が良いのかなとも思いますね、
御神意と言う言葉が有りますね、
いわゆる神様の御指図のまま、と言うのでしょうかね、
師匠の生き方を見て居りますと、見せて頂いて居りますと、
そうとばかりも言えない所が有りますね、
人間の生き方と、神様が仰る生き方との、
その間を行って居られると言う所が有りますね、
神様の御心を大切にする生き方、
とも言えるのかもしれませんね
神様一辺倒と言うばかりではいけない、
と言う所が有りますね、
やはり人間ですから、未だ、
この体がなくなったら、神に成るのかもしれませんけれども、
肉体が有る間は、未だ人間である必要が有る訳ですから、
神様一辺倒とは行けない所がやはり有りますね、
それでも神様の方に偏った生き方、
と言うのが信心には求められる様ですね
神様の御心を大切にする生き方、
と言う事になるのかもしれませんね
成行きを大切にすると言う事は、
神様の御心を大切にする生き方であると言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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