2022年9月16日金曜日

人は土の心を稽古することによって救われる (2022-09-16)

 今日も和賀心学 (2022-09-16)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


私どもの悩みの原因の一つに、期待と現実とのギャップが有る。願いとまでは行かずとも、あああればと言った様な期待を持っている時に、その期待が満たされないとき他人を責めたり、自分自身をも責める様な心が起きて来る。現実を受け入れられないからである。期待を放すか、土の心を稽古する事である。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 195頁)


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合掌

中原博信

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御理解 第1




今、天地の開ける音を聞いて、

目を覚ませ




病気や難儀のつづく時、今こそ天地の開ける音を聞くときであるが、

信心にならぬから眼がさめぬ




眼をさますということは大真理の喝破である

本当の本当をわかることである




教えたから、習うたからわかるものではない

一心の真心、不乱の信心が必要である




一、湯川安太郎先生は、

神さまが御主人、氏子は番頭




一、安武松太郎先生は、

一切が神さまの御物




一、私は、

一切が神さまの御事柄と悟った




それぞれ天地の開ける音を聞いて眼をさましたのである

そこから限りないおかげの道が開ける




今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませと

目を覚ます、何に対して目を覚ますのか




今朝目を覚ます事は、私どもが難儀とまでは行かなくとも、

悩みと言うものが有りますね、




難儀だなぁと言う、それ程重い事ではないけれども、

悩ましい事、悩まされる事が有ります




その悩まされる事が、どこから起こるのかと言う事を、

今朝は教えて頂いた様に思います




その悩みの起こる元、そしてその悩みをどうやって解決して行くのか、

そこの目を覚まさせて下さった様に思いますね




それは私どもが願うと言う所までは行かないけれども、

何かしら期待を持つと言う事が有りますね




あの人に期待を持つ、寧ろ自分自身にすら期待を待つ、

あああるべきだ、こうあるべきだと言った様な、




知らず知らずの内に期待を持っているものですね、

あの人があああってくれたらよい、




自分自身がこうあれば良いな、

と言った様な事ですね




その期待が期待通りにならない時に、悩みが生まれますね、

全てではないでしょうけれども、悩みの原因の一つではありますね




それで人の事を責めたり、あああれば良いのに、

どうしてああしないのかと、人を責めたり致します




そしてそれが人様ばかりではなく、

自分自身をも責める事にもなりますね、




自分がもっとこうしとけば良かった、

ああしとけば、こう言う事は起こらなかっただろうに、と思ったり、




ああありたいな、こうありたいなと思うけれども、

そうありたい、こうありたいと自分の期待通りに、自分が出来ない、




もっとそれこそ速く走りたいけれども、中々速く走れない、

と言った様な自分の期待に人が沿うてくれない、




また自分自身ですらもその期待に沿う事が出来ない、

そう言う時に悩みが起こりますね、そしてまたそれが高じると、




自分の期待通りの自分であり得ない、と言う所に、

自己嫌悪と言う様な事にも発展して来るのではないでしょうかね




ではそのそう言う悩みを解決するにはどうしたら良いのだろうか、

一つにはその期待を外してしまう、無くしてしまう、




あの人があああったらとか、この人がこうあったらとか、

また自分自身にすら、自分がこう言う事が出来たらとか、




こうあったらとか言う人に対しての期待、また自分自身に対しての期待、

それをも無くしてしまう、と言う事が一つ有りますね




とまたもう一つは、それはその期待に対して、現実がそぐわない、

マッチしていない所に悩みが起こる




ですからその現実をありのままに受け入れる心が出来たならば、

悩みは無くなりますね




その現実を受け入れる事が出来ないから、

悩んでいる訳です、




それこそあるがままの姿、

あるがままの自分自身と言うものを受け入れる事が出来ないから、




その自分自身に期待している、

その期待と自分の現実とがキャップが有るから自己嫌悪にも陥る




その自分自身、今ある自分自身を受け入れる事が出来たら、

今の現実を受け入れる事が出来たら、悩みは無くなりますね




今の現実を受け入れる事が出来ない、そこに悩みが有る、

これは正に土の心ですね、




今日頂きますのは、それこそ天地日月の心、土の心と言うけれども、

今までは人様が何かする事、私に降りかかって来る事、




人様が私に何かする事、これを土の心で受ける、

と言う稽古であった、




しかしこれは他に対してばかりではない、

自分自身に対しても土の心を稽古しなければならないと、




自分で自分を責める様な事が有りますね、

それこそ何ですかテストが有る、




もっと勉強しなくちゃいけないと思うけれども、

ついつい眠くなって寝てしまった、




そして勉強が不十分だった、どうして寝てしまったんだろう、

と自分を責める様な事も有る、




しかしその寝てしまった自分をも受け入れる、

土の心で受け入れる、




そこにこれは横着であってはなりませんけれども、

神様の御働きとして、神様がそれこそ休ませて下さったんだ、




神様が休ませられたのだ、と言う事を、

人に対しても、そしてまた自分に対しても、




それが神様の御働きとして頂けれる様になる、

そこに土の心で頂く事が出来る




あの人がああする、こうする、

これも神様の御働きだ、




自分がこうした、ああした、

これも結局は神様がそうさせなさったのだ、神様の御働きだ、




と頂けた時に、その事を例えば自分が、不完全な自分である、

不十分な自分である、そう言う自分でさえも神様が造られたのだ、




そう言う不完全な自分と言うものを、神様が御造りなさったのだ、

自分で作った訳ではない、ことは明らかですね




神様がそう造られたのであると言う事は明らかだと思いますね、

その神様がそう造られたそれを受け入れると言う事、




その受け入れる土の心が出来たならば、

その悩みも解消するのではないでしょうかね




やっぱり人が助かる、それは自他共に助かると言う意味において、

土の心を人様の行いの上にも適用する、




また自分自身のありよう、有り様、何と言いましょうかね、

自分自身の行い、ありようの上に於いても適用して行く、




土の心で、人の事を受け入れ、

そしてまた自分自身の事をも受け入れて行く、




そこに悩みも解消して来る、

自己嫌悪と言うものも無くなって来るのではないでしょうかね、




そこには一切を神様の御働きと見る、それは人様の事ばかりではない、

自分自身の事すらも神様の御働きと見る、




そう言うそこに徹する事だと言う事になりますね、

しかしここで注意が要るのは、横着であってはなりませんね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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