今日も和賀心学 (2022-09-27)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
この方の道は話を聞いて助かる道と言われるが、今朝はその話いわゆる教えには少なくとも2つのタイプが有ると。一つは、教えを聞くだけで合点したら助かる教え。もう一つは教えを聞いただけ、頭で理解しただけでは何の役にも立たない教え、即ちその教えを行じる事によって初めて効能が現れる教えだと。
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(和賀心教典 349頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第52節
信心する者は驚いてはならぬ、これから後、
どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはならぬぞ
何時どのような事が起きても、
それはどこまでも神さまの間違いない働き、
金光大神御取次の圏内にあることと解っていても、
吃驚仰天するような事がある
『驚いてはならぬ』と仰せられるが、
そこは凡夫のこと、少なからず心は動揺する
そんな時は神さまに心を向け、
心を鎮める願いをする事である
神さまは少しも驚いていぬかのような、
おかげを下さるものである
出来ずとも出来たかのようにおかげを下さる
金光大神のおかばいがあるからである
驚いてはならぬ、と申せられますけれども、
やはり驚く事が多いですね、
今日のこの御理解を頂いても、やはり驚きます、
よくこの御理解を頂きますね、
ただ何か事が起こる、そして驚く、と言う驚きは、
なる程驚いてはならぬのかもしれませんけれども、
師匠大坪総一郎師が教えて下さる、
信心の驚きと喜び、と言うこの信心の驚き、
これは大いにやはり驚いて行かねばならない、
その驚く程しの神様の御働きを頂いて行かねばならない、と思いますね
驚くと言う事は、私どもがいわゆる想定外とよく言われますね、
想定外の事が起こって来るから、驚くと言う事になるのでしょうね
想定内の事ばかり、自分が思っている、描いている、
その中で起こって来る事ならば、驚かずにも済むのでしょうけれども、
いわゆる想定外の働きが有る、だからこそ驚くのでしょう、
寧ろ驚いてはならぬ、と仰せられますけれども、
それこそ驚いてはならぬ、と仰せられる様な、驚く様なおかげを、
驚く様な働きを頂き続ける、
その驚く様な働きを頂き続ける中に、
驚かんで済むおかげを頂く、と言う事でなければならないと思いますね
今朝教えて頂きますのは
その教えと言うのにも 2つのタイプが有ると、
一つはそのいわゆるこの方の道は教えを聞いて、
話を聞いて助かる道だと言われる、
その話を聞く、教えを聞く事によって助かると言う教え、
これは誰にでも伝える事が出来ますね、
そして伝えて、人が助かるお役に立つ事が出来る、
これはいわゆる文章布教と言われるのもその一つかもしれませんね、
金光様の、教祖様の御教えを人々に伝えて、
いわゆる助かる、心が楽になると言うのでしょうかね、
師匠の御教えで言えば、
一切神愛と言う様な事もそうかもしれませんね、
なる程一切が神愛なのだと、
今私の身の上に起こって来ているこの事柄も、
それこそ驚く様な事が有るかもしれない、
その事さえも神様の愛の現れなのだと、
言わば神様の心を教えて下さる、
神様の心はこう言う心だと、人を助けたいばかりの神様なのだと、
そう言う教えを頂きますと、
やはり私どもの心が開かれると言うのでしょうかね、
それで楽になりますね、なる程そうなのかと合点がいって助かる、
その教え自体によって、心が楽になると言うのか、
助けられると言う教えですね、
しかし教えはそればかりでは有りません
もう一つのタイプ、
それは教えを聞いただけでは助からない、
教えを頂いて納得した、合点した、
それだけでは助かりにはならない、と言う教えが有りますね、
それは行じて初めて助かる、
と言う教えですね、
その行じる事によって、その教えを行じる事によって初めて、
効果が現れると言うのか、効能が有ると言うのか、
そう言うタイプの教えですね、
少なくともこの 2つのタイプが有ると言う事なのですね、
その例えば行じる事によって効果が現れると言うのか、
そう言う教え、それは例えば師匠が、黙って治める、
と言う事を教えて下さいますね、
その黙って治める、
これなどはやっぱり、人から何か言われる、
それを黙って治める、一言言い返したい所でも治める、
言わば自らがその教えを行じる、と言う行動が伴わなければ
その効果が現れない教えですね、
聞いただけでは、頭でなる程、黙って治めるのか、
と頭で分かっただけでは、聞いただけではその効果が無い、
これは教祖様が、真の信心を伝えて、
真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ、と仰って居られますね、
この「させる」と言う、いわゆる行動を起こすと言うのでしょうかね、
行じさせる、行じてみて初めて、その効果が現れると言う教えですね
この少なくとも 2つのタイプの教えが有ると
後者の、行じてみて、行じなければその教えの効果が現れない、
と言う教えの方は、伝えるのは中々難しいですね、
確かにその天地日月の心ですと、黙って治める事です、
成行きを大切に尊ぶ事です、と伝える事は出来る、
しかしその事を行じさせると言う事は中々難しい、
教えを伝える事は出来ても、その教えを行じさせると言う事は難しい、
よく馬を水の側まで連れて行く事は出来る、
しかしその馬に水を飲ませると言う事は難しいと言われますね、
そう言うものかもしれませんね、そう言う意味において、
師匠大坪総一郎師は、人にその、それならば教えを行じてみようか、
と言う、行じてみようと言う、行じさせる力、
をお持ちの方だったなと、改めて思いますね
してみると人が助かる為の信心である訳ですけれども、
人が助かる為には、少なくとも 3つのパターンが有る様に思いますね、
一つは取次者の力によるおかげを授ける働きの助かり方、もう一つは、
話を聞いて、その話に合点がいって心が救われると言う助かり方、
ともう一つは、その話を聞いて、自らがその御教えを行じる事によって、
自らが神様のおかげを、神様の御働きを引き出すと言うのでしょうかね、
頂く事が出来る様になる助かり方
人の助かり方には、
この大別すると 3つのタイプが有る様ですね、
勿論この 3つを、何れもがそれこそ十全に満たされた時、
人の真の助かりが得られる、と言う事になるのではないでしょうかね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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