2022年9月22日木曜日

目指すは和賀心、体得するは一切神愛 (2022-09-22)

 今日も和賀心学 (2022-09-22)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


私どもは日々を只漫然と生きて居るような事はなかろうか。今朝は、確かな目標を定めよと言う様な事を教えて頂いた。目標を定めての精進でなければ迫力が出ない、填まりが出ない。究極は人間の真実の幸福、和賀心を目標と定める。師匠大坪総一郎師の、目指すは和賀心、体得するは一切神愛と言う事になる。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 367頁)


ビデオ: https://youtu.be/mKmdQbkiOPQ

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合掌

中原博信

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御理解 第58




人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、

腹を立ててはならぬ、盗人をしておらねばよし




乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし

神がよく見ておる、しっかり信心の帯をせよ




念ずるとは

今の心と書いてあります




今を心にかけるということは心に神を頂くということ、

つまり心行そのものです




腹を立てておる内容をよくよくしらべてみると、

御礼を申し上げることに気づきます




久留米の今村アサエさんが今日の夏期信行にバスで参拝の途中、

車の中で息子さんの事でちょっと不足を思いながら、




そのままウトウトしておられましたら、お夢の中で大きな建物が

ガラガラと音を立ててくずれるところを頂かれたそうです




腹を立てたり不平不足を言うことは

折角のおかげをこわしてしまいます




今朝はミニ御理解に、

腹を立ててはならんと、




不足、不平不足を言ってはならぬ、

思うてはならぬと言う様な御教えですね




またその神が見ておると、

神様がよく見て居られる、と御理解に有ります




しっかり信心の帯をせよと、神が見ておると、

神様御照覧の世界に生き抜く




その色々な御教えが有ります、

今朝頂きます事は、




その御教えも色々ある、

しかし私どもが何と言いましょうかね、




日々生きておる、それが只漫然と生きておるだけではしょうがない、

と言うのでしょうかね




やはり私どもが何か目的を定める、

その目標に向かって信心をさせて頂くと言うのか、歩くと言うのか、




ただ確かに生かされているとか、

信心の様々な教えが有ります、




その教えに取り組む、

それは結構でありますけれども、何と言いましょうかね、




その何処かにいわゆる行き着く所と言うのか、

焦点が定まらないと、




教えが、あの教えてあったり、この教えであったり、

何と言ったら良いのでしょうかね、




うろうろするばかりだと言う事なのですね




ですからその教えを行じようと言う事にも、

行き着く目的が有りませんから、




迫力が出ないと言うのでしょうかね、

填まると言う事が出来ない、と言う事かもしれませんね




ですから今朝は、その何か自分が目指す所、行き着く所、

その目標を定める、それが先ず大切だと言う事なのですね




信心をさせて頂く、

何となくお参りしている、




お参りを止めたら何か悪い事が起こる様な気がする、

お参りをしていれば守られている様な感じがする、




ただ何となく漫然と信心を続けておる、

と言う様な事はないでしょうかね




これは勿論私どもが生きると言う事に於いてもそうですね、

例えば学校に行くと言う事に於いても、




小学校、中学校まではいわゆる義務教育で、

行かねばならんから行っている、




そこに何の為に学校に行くのか、

いわゆる積極的に学校に行く目的と言うもの無しに行っている、




行かされるから行っている、行かねばならんから行っている、

と言う様な事では、自らの発心と言うのでしょうかね、が有りませんね




何かを勉強したいから、それこそ遊びたいからでも良いでしょうし、

友達の誰彼に会いたいからでも良いでしょう、




何かしらそこに目標、目的を確かなものに定めて、

そして日々を過ごさせて頂く、




と言う事がやっぱり大切だと言う事ですね




何の目的も無く、日々をまあ生かされていると言うのでしょうか、

生きていると言うのでしょうか、




それでは日々が勿体ないと言うのか、

生きると言う事に於いて迫力が出ませんね




やはり何かを目指して生きる、信心も何かを目指す、

その目指す所を確かに定めよ、と言う事なのですね




でこの御道で定める所は何か、

それはやはり師匠が教えて下さる、




目指すは和賀心、体得するは一切神愛、

と言う事になるのではないでしょうかね




私どもが信心させて頂く、

それは目指す所は、和らぎ賀ぶ和賀心だと、




その自らの心の中に和賀心を頂く事、

そしてその自らの中に和賀心を頂けたら、




いや頂けずとも、

そこに目指しが確かなものとして置かれたら、




その事を世の人々にも伝えて行く、

そして皆が和賀心を目指して進んで行く、




そう言う社会が築かれる事を願い、

そこに邁進させて頂く、




そこに世界真の平和も訪れる

と言う事になるのではないでしょうかね




そのここを目指すのだと言う所が、

自分の中にハッキリと定まる事が大切だと言う事ですね




ですからこの御道、師匠の弟子として、

和らぎ賀ぶ和賀心を目指すのだと、




そこに焦点を置いての、それこそ腹を立てないでも、

こんな事では、腹を立てておったのでは、




とても和らぐ賀ぶ和賀心にはならない、頂けない、

と言う事にもなりますね




どうでも確かな所に焦点を定めての信心、

それは一番確かな所は、




和賀心に焦点を定めての信心をさせて頂く、

一切が和賀心に向いていると言う事になりますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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