今日も和賀心学 (2022-09-20)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
今朝頂きますのは、人間が真に助かる為には2つ。一つは、和らぎ賀ぶ和賀心を目指しての精進をする事。二つ目は、天地金乃神様の御働きを頂き続ける事。この2つが車の両輪の如く相まって行って初めて真の助かりへの道を歩むことが出来ると。言い換えれば、神様の御働きを頂きつつ和賀心を目指すと言う事。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 373頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第60節
おかげは受け徳、受け勝ち
おかげはわが心にあるもの
お徳は神さまが下さるもの
四神さまのみ教えにも
『おかげは神から出ると思うな、氏子の心の中から出るものじゃ』
とありますが、
お徳はそういうわけにはゆかぬもの
久留米教会の初代はお徳は神さまのご信用と説かれてあります
神さまに信じられる信心をせねばなりません
本当のおかげは
徳をうけたものには勝てません
本当のおかげは徳を受けた者には勝てません、
と有ります
このおかげと御徳、その両方を頂いて行く道、
これを師匠大坪総一郎師は教えて下さった様に思いますね
勿論私どもが生身の人間として生きて行く上に、
おかげを頂いて行かねばなりません
そしてまたそのおかげを頂くと言う過程に於いて、
御徳を頂くと言う事でも有りましょうね
おかげと御徳、切っても切れないものだと思いますね、
実際にはですね
これはおかげだ、これは御徳だと言う事ではない、
その何と言うのでしょうかね、
御徳に伴う所のおかげと言う事になれば、
それこそ鬼に金棒と言う事でしょうけれどもね
昔頂いたお知らせの中に、
ある成行きが有りました、その成行きをどう頂くか、
その頂き方でいわゆるおかげになる頂き方と、
御徳になる頂き方があると、
言ってみれば、おかげで終わってしまう成行きの頂き方と、
それが御徳にも発展する様な頂き方が有ると、
その時頂いたお知らせは、
おかげへの道と、いわゆるご利益の道でしょうかね、と
御徳を頂く道とは、
その成行きの選択の仕方が違うものだと
右に行けばいわゆるおかげにはなる、
しかし御徳にはならない、
左に行く、左に行けばいわゆるご利益にはならない、
けれども御徳にはなる、神様の御信用を頂く、
そう言う成行きの選択の仕方と言うのが有ると、
言う事は有りますね
しかしその結局御徳を頂いた後に、
思わぬおかげを頂いて行く、と言う事の方が良いのかもしれませんね
確かにおかげの道を取れば、
御徳を頂くと言う事からは遠のいてしまいますね
しかし御徳を頂くと言う道を取れば、
一見おかげからは遠ざかった様に有りますけれども
行く行くは、おかげをも頂けれる様になる、
と言う事ではありますね
目先のおかげを頂くのか、
それこそ先々のおかげを頂こうとするのか、
その辺の何と言うのでしょうかね、
選択が迫られる時が有りますね
今朝教えて頂きますのは、
私ども人間が真実救われる、助かると言う事に於いて、
それは 2つの事を求めて行かねばならないと、
その一つは和らぎ賀ぶ和賀心、
自らの心の中に和賀心を頂こうと、目指すと言う事、
ともう一つは、これはおかげではありませんね、
神様の御働きを頂いて行くと言う事、
勿論いわゆるおかげと言われる様な、
ご利益と言われる様な御働きも有ります
しかし中には先程申します様に御徳を取るか、
おかげを取るか、まぁご利益ですかね、を取るか、
と言った様な 二者選択を迫られる所も有りますね、
しかしそれとても神様の御働きです、
神様から、神様がこの氏子にご利益をやろう、
あるいは御徳をやろう、授けようとして居られる、
しかしその両方とも授けて下さらないとすれば、
そう言う御働きが無い訳ですからね
ある意味、お試しと言う時かもしれませんね、
そう言う神様からお試しでも頂く、
それは神様が、さあこの氏子はどちらを取るだろうか、と
そう言う御働きを下さる訳ですから、
そう言うお試しを頂けない様な事では、
神様から無視されている様なものかもしれませんね
氏子が可愛いからお試しも下さるのでしょうからね、
お気付けを頂く、お試しを頂く、
そのお気付けであったり、お試しであったり、
それを頂けれる様な信心をさせて頂かねばなりませんね
お気付けも頂けない、お試しも頂けない、
と言う信心であったのではつまりませんね
その何れにしろ、良きにつけ、悪しきにつけ、
神様の御働きを頂いて行くと言う事、
そしてまた私どもが自らの中に
和らぎ賀ぶ和賀心を求めて行くと言う事、
この 2つの事が相まって進んで行く、
信心の稽古をさせて頂く時に、
私どもが真実の助かりへと
導かれて行くと言う事なのですね
そのプラス思考とか言うのが有りますね、
これも良い事に違いないとか、
それこそ禍福は糾える縄の如くですか、今は禍いだけども、
この次にはきっと良い事になるだろうと言った様な、
私どもの心の中で、心の持ち様で心を治めて行く、
と言う事だけではなりませんね
そこに神様の御働きが伴うて来る、
私どもの心の動きと、
神様の御働きがそこにあって初めて、
本当の助かりに導かれると言う事ですね
そのプラス思考と言った様なものは、
信心が無い人でも出来ます
しかし神様のおかげがそこに伴うて来ると言う事になれば、
これは信心をしなければ頂けない世界ですね
ですから私どもが和賀心を求め続ける世界、と
そしてそこに神様の、天地金乃神様の御働きが寄り添うて来る世界、
それが相まって行って初めて、人間の真実の幸せがある、
人間が真実助かって行く事が出来る様になる、と言う事なのですね
私どもがそれこそ和賀心にならなければ、
助かる事にはならない、と言う事ではない、
師匠もハッキリと、和賀心になり得ずとも、
和賀心を目指す所におかげが有る、神様がおかげを授けて下さる
このおかげとは、
神様が御働きを下さると言う事だと思いますね、
私どもが和賀心を目指す所に、
神様がその御働きを示し現して下さる
そこにまた私どもの心が愈々助かって行く事が出来る、
と言う事になりますね
ですからどうでも信心の稽古をさせて頂き、和賀心を目指す、
そしてそこに神様の御働きを頂きつつ、和賀心を目指す、
と言う事になって行った時に初めて、
人間の真の助かりが得られると言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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