2022年9月14日水曜日

天地金乃神様の御働きを天地金乃神様の御働きとして感じる心を養う (2022-09-14)

 今日も和賀心学 (2022-09-14)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


信心の稽古とは、信心の感性を信心センスを磨く稽古でもある。師匠大坪総一郎師は信心には感じると言う事が大切だと仰って居られた。今朝は昨日の成行きから、聞く世界から見る世界へと頂いた。人の体験を聞く世界から、自らの目で神様の御働きを見る世界とも言えよう。神の働きと感じる感性を磨かねば。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 130頁)


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合掌

中原博信

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御神訓




信心は本心の玉を磨くものぞや




本心に立ち返るということは、

人間、この世に生を享けると同時に神性が授けられる




ところが成長するにしたがい我が芽ばえてくる

神性とは似ても似つかぬ浅ましい苦悩の道へ堕落してゆく




そうした人生の分岐点に立った時、

真の道を示してくれるのが真の信心である




真の信心と教えて下さいます、

またその本心の玉を磨くものぞやと




本心の玉を磨く、どう言う事でしょうかね、

心が美しくなる、と言う事でもありましょうし、




心が愈々豊かに大きく美しくなる、磨かれて行く、

そしてまた心を磨くと、そこには今まで見えなかったものが見えて来る




鏡が良く映る様なものかもしれませんね

濁っていると薄ぼんやりと何が何やら分からない




それが透明にくっきりと磨かれると見える、

窓でもそうですね、窓ガラスでも曇っていると、




自動車でもそうですけれども、先が良く見えない

綺麗にくっきりと磨き上げると先が良く見える




これは見ると言う事、

神様の御働きが御働きとして見えると言う事だと思いますね




真の信心の一つは、その神様の御働きが、

神様の御働きとして見える、感じると言う事ですね




師匠はよく信心の感性、

信心センスと言うものを大切にして居られましたね




信心の稽古をすると言う事は一つは、信心の感性を磨く、

信心センスを磨くと言う事でもあろうと思いますね




今朝はその師匠がある成行きから、

聞く世界から、見る世界へと頂かれた事が有りますね




今まで耳で聞いていた世界から、

今度は見る世界、




言わばラジオの世界から、

テレビの世界へと世界が変わると言う事ですね




これは私どもの感性が、

それこそ今まではラジオで聞く様な信心から、




これからはテレビで見る様な信心へと変わって行かなければならない、

育って行かなければならない、と言う事でもあろうと思いますね、




これは私どもの感性が、耳が育つ、

それから目が育つ、と言う事にもなりましょうかね




見る信心から、失礼、聞く信心から、見る信心へ、今朝は

私も成行きの中で、そう言うものを感じさせて頂いたのですけれども




今日感じさせて頂きます事は、

その聞く世界、聞く信心、




それは聞くと言う事は、師匠の、大坪総一郎師の御理解を頂く、

そして師匠が体験されたそのお話を聞く訳ですね




ですから、ああなる程そう言う世界が有るものか、

なる程そう言うおかげを頂くのか、




そう言う風にして信心を稽古して行くのか、

と師匠の通られた所を耳で聞く訳ですね、




耳で聞くと言うのは大抵人の話です、

人の体験話と言うもの聞く世界ですね




そこから、見る世界と言うのはどう言う世界かと言うと

自らの目で見る世界、自らの目で神様の御働きを見る世界、




言わば自らが神様の御働きを目で見て聞いて、

それこそ体験する、自らが体験する世界とでも言うのでしょうかね、




それが見る世界だと思いますね、その自らの目で

神様の御働きを見て行く世界とも言えるのでしょうかね




聞く世界はそれこそげなげな話で、

ああだった、こうだったと人の体験話を聞いて、




なる程そうかなと、

合点して助かる世界かもしれません、




しかし見る世界と言うのは、

自分が自分の目の前に神様の御働きを見て、感じて、




そして自らが体験して助かって行く世界、

これが見る世界だと思いますね




そのこれからは聞く世界から、

見る世界に入ると、




言わば自らの目で

神様の御働きを見て、感じる世界に入って行かなければならない、




またそう言う御働きを下さると言うのですね、

聞く世界の間は、それは師匠が体験された神様を聞く世界であった、




見る世界とは、自分の目の前に起こっている神様の御働きを頂いて行く、

見て感じて行く世界だと言う事ですね、




それだけ神様が御働き下さる、御働きを示して下さる、

と言う事でもあろうと思いますね




その為には私どものセンス、感度と言いましょうかね、

信心センスがやはり磨かれていなければ、




神様の御働きを神様の御働きとして見る事が出来ない、

感じる事が出来ない




ある人にはただの雑音に見えてしまう、

失礼、雑音に聞こえてしまう、




しかし信心センスが磨かれて来ると、

その事が神の声として聞こえて来る




今目の前に起こっている事が、

単なる雑事としてしか見えない、




しかしそれが、センスが磨かれて来ると、

神様の御働きとして見えて来る




その今までは神様の御働きと思えなかった、

ただ偶然だ、ただ何となく起きて来ていた、漫然と見ていた、




そこに神様の御働き、あっこれは神様の御働きだ、

神様からのメッセージだ、と見える様になる、感じれる様になる、




そう言う稽古をやはりさせて頂かねばならない




その信心感覚と言うのでしょうか、

そのセンスが磨かれない限りは、




どれ程神様の御働きがあっておっても、

働きを働きと感じれない訳ですから、有難くもなれませんね




自分に都合の良い事が起こって来た時には、

有難くはなれる、




しかし信心による有難さは、そこに神様の御働きを感じた時に、

有難いと感じる有難さだと思いますね




それは都合が悪い事が有るかもしれません、

それでもそこに、これは神様の御働きだ、と感じたら、




有難くなる事が出来ますね




先ずは信心センス、

信心感覚を磨く稽古をさせて頂かねばなりませんね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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