今日も和賀心学 (2022-08-29)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
立教神伝に難儀な氏子と有る。私は今まで、難儀と聞くと何か大変な困り事の様な印象を受けていた。今朝はそう言う重度の難儀とは言えない様な、言わば軽い悩みを持つ人をも、取次ぎ助けてやってくれの範疇に入ると言うような事を感じさせて頂いた。難儀な氏子を悩める氏子と読み替えてはどうだろうか。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 134頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
慢心が大けがのもとなり
信心はえらくなるためでもなければ、
かしこうなるためのものでもない
信心は有難うならせてもらう稽古である
おかげを受けるために信心すると、おかげを受けて慢心になる
信心、真心、神心を求めての信心には、慢心の出ようがないが、
慢心が出るほどのおかげも受けてみたいものです
おかげを受けて慢心になると、
おかげを求めて信心をする
いわゆるご利益信心と言われますけれども、
信心をする、と言うとこのご利益、おかげを求める
信心とおかげ、いわゆるご利益と言うのでしょうかね、
切っても切り離せないものだと思います、
けれどもその今の社会において、
いわゆる神様におかげを求めようと言う人は
意外と少ない様な感じが致しますね
それより色々な相談所が有ったり致しますからね
アメリカに来させて頂いた頃ある先生が、
アメリカでの布教は難しいと、
ところが或るいわゆる未開の土地ですか、
そちらでの布教の方が易しいと、
何故ならばアメリカではいわゆるその
色々な病院であったり、弁護士さんであったり、
そう言う色々相談する所が整っていると言うのでしょうかね、
医学も発達している、だから大抵はその人間の力で解決する事が出来る
一方未開の地に行くと、そう言うお医者さんも居ない、
弁護士さんも居ない、相談する人が居ない、だから神様に縋るしかない、
と言った様な事を
仰られた方が居られましたけれども、
今はどうか分かりませんけれども、
確かにそう言う所が有るのかもしれませんね
しかしどう言う世の中になっても、人々が助かりを求める、
救いを求める、と言う事は有ろうと思うのですけれども、
ところが、私どもは真実の助かり、真の救い、真の助かり
と言うものを信心の焦点に置くべきだと言う訳ですけれども、
では真の助かりを求めている、真実の救いを求めている人が居るか
と言うと、これもまた実際問題として少ないですね
それこそ目の前の難儀が解決すれば良い、
と言う人々の方が多いと思います
昨日のミニ御理解でしたか、その信心しておかげを頂く、
ところがその後の信心が続きません、と有りましたね
そこから後は
また大切な問題でしょうけれども、
先ずはそこに至る前の、助かりたいと、
助けて欲しい、と縋って来る人がまた少ない
この御道に助けを求めると言う人が
また少ないのではないでしょうかね
それは助けを求める、助けて欲しいと願う人が
段々少なくなって居るからの様に思いますね
しかし一方、その悩んでいる人は沢山居る訳ですから
人間関係であったり、お金の問題であったり、
なる程いわゆる駆け込み寺ではありませんけれども、
神様に助けて頂こうと切実にそこまでは思わなくとも、
何とかなれば良いな、助けてもらいたいなとか、自分の悩みを
解決してもらいたいなと思う人達は沢山居られる訳ですからね
世の中には色々な問題が有ります、
文明が発達すれば発達したで様々な心の病気であったり、
様々な悩み、難儀ですか、困った事が有ります
そう言うその困った事、いわゆる人々の悩み、
助けて欲しいと言う切実な願いではなくとも、
その悩み程度、私ども様々な悩みがやはり有りますね
ニキビで悩んでいる人が、それこそ何かで悩んでいる、
身体的な悩みであったり、心の上の悩みであったり、
助けて下さいと言う所まではいかないけれども、
悩みは抱えている人達は多い様に思いますね
助けて下さいとは思わないけれども、
願いを叶えて欲しい、
この願いが叶うならば、
と言う様な人達は多いのではないでしょうかね
ですからこれまでは
それこそ神様が、難儀な氏子を助けてくれと、
それは難儀に喘いでいる人、難儀の中で困り果てている人、
そう言う人が助かりを求めて来る、と言う事でしょうけれども、
そこまでいわゆる切実に助かりを、神様に求めようとする人は
段々少なくなって来ていると言う事ですね
ですからもっといわゆる私ども御用させて頂く者がもっと
敷居を下げると言うのでしょうか、門戸を開くと言うのでしょうか
そのいわゆる助かりたい、助けて欲しいと
切実に助けを求めて来る人のみを対象にするのではなく、
もっといわゆる普通に悩みを抱えている人達、
この願いを叶えて欲しいなあと言う様な人達、
そう言う小さなどんな悩みでも良い、
その悩みを何と言いましょうかね、和らげると言うのでしょうかね
その難儀と言う事から、
これは言葉的な、言葉の遊びの様な事かもしれませんけれども、
いわゆる難儀と言うものではなく、
悩みと言う程度のものに替えたらどうだろか、
そう言う意識を持ったらどうだろうかと思いますね
難儀な人を取次ぎ助ける、取次ぎ助けさせて頂くと言うよりか、
悩みある人、悩み多き人、
悩みのある人を取次ぎ助ける御用に立たせて頂く、
そう言う私どもの何か意識の変革と言うものが
要る様な感じが致しますね
それ無くして、言わば百年前、百五十年前、
教祖様が居られた頃のその意識のまま、
その表現のままで、私どももやはりその言葉を鵜呑みにして、
その言葉通りにしようと致しますから、
やはりこれは社会の流れと言うのでしょうか、
歴史の中でそぐわない所が出来て来ている様に思いますね
もっと門戸を広げて、
悩みを解決する教会と言う事になりましょうかね
そう言うより多くの人が抱えている悩み、
そう言うものを和らげる、解放する、
そしてそこから悩みの無い真実の、それこそ助かりの世界へと導く、
そう言うお役に立たせて頂きたいと思いますね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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