今日も和賀心学 (2022-08-04)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
私どもの我情我欲が難儀の元を成している事に違いはない。我情我欲を放せば難儀から解放されるだろう。今朝はもう一つの難儀の元を教えて頂いた様に思う。それは神様の御心が分からないから、いや神様の御心を分かろうとしない事だと。自分の願いが叶う事ばかりを願い、神様の心を分かろうとしないことも難儀の元の一つだと。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 361頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第56節
日にちさえたてば世間が広うなってゆく
ひそかにして信心はせよ
『世間が広うなって行く』と同時に
自分の心を寛く大きくして行く事である
ひそかに信心の喜びをじっとおさえて
心の奥に喜びの泉をつくることである
いたずらに、ただ日にちが経って忘れていくだけでは
勿体ないことである
ひとりわが道をゆく
心を寛く大きくして行く事であると
この大きくと言う字を、失礼、寛くですか、
寛くと言う字をウ冠、そして草冠ですか、
そして見ると言う寛大の寛ですね、を書いて居られます
これは宇宙の働きと見る、そこに大きな心が頂けれる
草冠、自然の働きと言うのでしょうかね
私どもに起こって来るその事柄を、
ですから宇宙の自然な働きと見ると
これは神様の御働きと見ると言う事だと
師匠は教えて下さいますね
それこそ成行き、私どもの身の上に起こって来る色々な事柄
これを神様の御働きだと見て頂いて行く生き方
そこに心が寛く大きくなると教えて下さるのですが、
師匠は神の心を心とすると教えて下さいます
神の働き、ああそうでしたね、この寛大の寛、
寛いと言う字は宇宙ですから天地自然と言う事ですか、
神様と言う事ですね、
そして草冠と言うのは自然に起こって来ると言う事ですかね、
言わば私どもの身の上に起こって来るその成行き、
それを宇宙の働き、宇宙、天地、神様の働きと見る、
そこに寛大な心が頂けれる
と言ったような御理解だったと思いますね
その神の心を心とする
と言う事を教えて頂きます
今朝頂きますのは、人間の難儀、
その難儀の元のもう一つの難儀の元と言うのでしょうか、
それを教えて頂いた様に思うのですが、
勿論私どもの我情我欲、これが難儀の元になっている、
その難儀の元の一つは我情我欲ですね
ああありたい、こうありたい、あれが欲しい、これが欲しい、
その私どもの我情我欲が自分の身を苦しめる事にもなる
その願いが叶えられない、叶わない、
そこに苦しまねばならない事になって来る
その我情我欲が難儀の元だと言う訳ですね、
ともう一つの難儀の元を今朝は教えて頂いた様に思います
それは昨日の続きの様になりますけれども、
神様の心が分かれば救われる、なる程と合点が行く
ですから難儀の元のもう一つは神様の心が分からない事だと、
いや寧ろ神様の心を分かろうとしない、求めようとしない、
それが難儀の原因のもう一つをなしている
と言う事なのですね
私どもが信心に求めるもの、また日常生活においても求めるもの、
それは自分の欲が満たされる事、あるいは願い通りに事が運ぶ様に
その自分の願いが叶います様に、
と言いのが大概の信心ですね
その自分の願いが叶います様にと言う所から、
いやそれを一つ横に置いて、
神様の御心を分からせて下さいと言う、
また神様の御心が分かりたい、と言う信心と言うのでしょうかね
そう言う心境に私どもが育たねばならない
と言う事なのですね
師匠が、天地の 心知りたし 道あらば 示せ天地 己が心に、
と歌われましたあの、神様の御心が分かりたい、
今例えば難儀なら難儀をしておる
その、何故こういう難儀をせねばならんのか
何故こう言う難儀を神様が私に与えられるのか、
その神様の御心が分かりたい、
と言うその神様の心を分かりたい、
分からせて下さいと言う、神様の御心を求めて行く信心、
と言うそこに突入しなければならない、そう言う扉が自らの心の中に、
そう言う境地が開かれねばならないと言う事なのですね
ただ自分の願いが叶います様にと言う信心から
神様の御心が分かりたい、神様の御心を分からせて下さい、
と言う信心へと育って行かねばならない、
と言う事なのですね。
そしてその神様の御心が分からないから、難儀をしている、
難儀な心になっていると言う事なのですね
親の心が分からないから、親が厳しくされる事でも分からない
親は子供の為と思うて、子供に厳しい事も言う、
しかし子どもはその親の心が分からない、
ただ自分の願いだけを思っている、見ているから
親の言われる事に反発をしてしまう、親の言う事が聞けない、
親の心が分からないからですね
私どもも神様の御心が分からないから、
その事を難儀と思うている
神様の御心が分かれば、そこに合点が行けば、
その事を難儀と思う心が無くなる
そしてそこに、それこそ行く行くは感謝の心も、
有難い心も生まれて来るだろう
一足飛びにとは思えませんけれどもね
その神の心を心とする、神様の御心を分からせて下さい、
神様の心が分かりたい
私の願いが成就する為の信心から、
神様の心が分かりたい、
神様の御心を分からせて下さい、
と言う信心へと進んで行かなければならないと
神様の心が分かりたいと言う信心に進まない限りは、いつまで経っても
その難儀から抜け出す事は出来ない、と言う事なのですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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