今日も和賀心学 (2022-08-25)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
このお道の一大眼目は生神を目指しての精進にある。教祖様も、神になる事を楽しみに信心せよと教えておられる。師匠大坪総一郎師は、神の心を心とする、即ち究極生神の心になる事を目当てに信心する事を教えられた。腹を立てたり、人を責めたりでは神の心からは程遠い、先ずは大きな心になる稽古から。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 325頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第44節
狐狸でさえ、
神にまつられることを喜ぶというではないか、
人は万物の霊長なれば、
死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ
教祖は『この世で神にならずして、あの世で神になれるか』
と教えています
神になるとは、霊長としての値打ちを発揮することです
我情我欲をはなれることです
そこには霊徳、神徳が渾然として一つになる世界があります
いわゆる『神徳の中に生かされてあり』の実感です
『死したる後、神にまつられる』
ということは、
吾が心が神に向こうて行くことを楽しみに
生涯かけて精進して行くことをいうのです
有難い事ですね、今朝は心中祈念の時に、
今日はどう言うお話をさせて頂きましょうかとお願いしていましたら、
心に響いて来たのが、
師匠がお見廻りをして居られました、
それはもう御晩年ですから、
ご自身では歩く事が出来られませんから、
車椅子で修行生の先生達が後ろから押して、
教会を見廻れるのですけれども、
その時に、初めてお参りされたある御信者さんが、
ロビーでくつろいで居られました、
そこに丁度行き合わせて、
御理解を下さったのが、
信心すると言うその一大目標と言うのでしょうか、
眼目と言うのでしょうか、それは生神に成る精進だと、
その方に、生神に成る事を目指しての精進をさせて頂きなさい、
と言う様な事を御理解下さいました
初めてお参りされた方にすごい事を言われるな、
とその時は思いましたけれども、
恐らくあれは、私どもその周りと言いましょうか、
お見廻りのお供をしていた者達への御理解でもあったのだと思います
その事を改めて思い出させて頂いたのです、
いわゆる信心の一大眼目、それは生神を目指しての精進だと、
これにはそれこそ限りが有りませんね
ああそうか今日はその神を目指す、
神に向かうと言う事なのだなと、思って居りましたら、
今朝開かせて頂きました御理解が、正にその御理解でしたね
神に成る事を楽しみに信心せよと、正に生神への精進と言う所でしたね
有難い事だなと思いますね
で今朝その生神への精進、
ではどうあったら良いのか、と言う事ですけれども、
具体的に、ではどうあるべきなのか、
その事は、心が大きくなる事だと、
先ずは心を大きく持つ事だと、
教えて頂いた様に思います
この私どもの信心の一大眼目が、
生神に成る事、神に成る事だとすれば、
そのいわゆる天地書附、生神金光大神、天地金乃神、一心に願え、
おかげは和賀心にあり、今月今日でたのめい、
と、その和らぎ賀ぶ和賀心を求めて日頃精進をさせて頂く、
この和賀心と生神への精進とがどう繋がるのだろうか、
と思いましたけれども、
ここの所は未だ教えて頂けませんね
和賀心と生神への精進がどう繋がって来るのか、
未だ私にも分かりません
ただ少なくとも分かりますのは、和賀心になり得ずして、
神に成る事は出来ないだろうなと、言う事ですね
もし神様の心が、何と言いましょうか、
腹を立てまくっている神様であったり、
人を責めまくっておったり、イライラ、モヤモヤ、
いわゆる和らぎ賀ぶ和賀心ではない心の状態、
そう言うイライラ、モヤモヤとか、
怒った様な心の状態、
そう言う心の状態であったのでは、
とても神の心には程遠いだろうなとは思いますね
神様は人の助かりを、それこそ万年億年かけてでも祈って居られる、
願って居られる神様だと、
その人の幸せを、人の助かりを祈る神の心が、
イライラ、モヤモヤ、腹を立てまくる、人を責めまくる様な事では、
とても人の助かりを願って居るとは言えませんからね、
やはり人の助かりを願うからには、
和らぎ賀ぶ和賀心の状態でなければならない、
人を責める様な事では、人は助かりませんからね
そう言う意味においても、
先ずはその神に成ろうとする精進の一つ、
それはやはり人を責めない事だと、
為には私どもの心がもう一回り大きくならねばなりませんね
結局心が小さいから
人を責めます、腹を立てます、
私どもの心がもう一回り大きくなれば、責めずに済む、
腹を立てずに済む、と言う事になるのでしょうからね
これは和賀心を頂くと言う事にも通ずると思いますね、
心が小さいから腹を立てている、今の成行きを頂けない、
その和賀心を頂く為の精進と、
生神に成る為の精進とが大変似通っている様に思いますね
そしてやっぱり最終目的と言うのは、
生神への精進だと言う事ですね
でその具体的にどうするか、を今朝頂きますのは、
それこそ人を責めない事だ、愈々その為には大きな心を持つ事だ、
もう一回り大きな心になろう、
と愈々大きな心を目指すこと、
生神を目指すならば、愈々大きな心を持つ事を目指せと、
今朝はそう教えて頂いた様に思います
先ずは人を責めない、大きな心になる事を目指す、
それが生神への精進の第一歩だと言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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