今日も和賀心学 (2022-08-16)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
神様のおかげを神様のおかげと正しく感じれれる信心をさせて頂かねばならない。病気になる、良い薬のおかげで病気が治ったではなく、そこに神様のおかげで治させて頂いたと言う神様のおかげを感じる所から神様との心の通い合いが生まれ、真の救いへと導かれる。真の助かりは神様との心の通い合いにある。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 353頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第53節
信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い
知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ
後で考えて、あれもおかげであった、
これもおかげであったということがわかるようになる
そうなれば本当の信者じゃ
『一切神愛論』から頂けば、
あれもおかげこれもおかげとわかりますが、
どれ程の深さ重さをもっておかげを実感できるかということに、
限りない信心の精進が求められる所以です
ここの師匠が仰って居られる、
どれ程の深さ重さをもっておかげを実感出来るかと言う事にと、
この実感出来るか、おかげをおかげと実感する、
その実感出来る、感じると言う事ですね、
それがそこに限り無い信心の精進が求められる所以です、
と仰って居られます
私どもの精進、そしてまた神様が働きかけて下さる、
その神様の働きかけて下さる、
いわゆるそのおかげを神様のおかげとして、
神様の御働きとして感じる事が大切だと言う事なのですね
私どもが助かると言う事、勿論その願い通りに事が運ぶ、
そこに助かりを見い出すと言う助かりも有りますけれども、
その願い通りになった時に助かると言う助かり方では限りが有る
のですね、本当の助かりではないのです、
私どもが真に助かる、本当に助かる言う事はどう言う事かと言うと、
それは神様との心の通い合いの中に頂く助かり、
神様と心が通うて、そこに助かりを感じる事が真の助かりに繋がる
のだと言う事なのですね
私どもの願いが願い通りになったからと言って、それが
真の助かりではない、真に救われたと言う事ではないと言う事なのです
神様との心の交流があって、そこから得られる助かり、
救いこそが真の助かりに繋がると言う事なのです
よく病気のお願いをする、
そして病気が治った、
それがこれはたまたまそう治る時期が来ていたのだろう、
もう治るべき時だったのだとか、
薬が良かったのだろう、
薬が当たったのだろうとか、
あの先生の治し方が良かったと言うのか、
先生の見立てが、そして治療が功を奏したのだろう、
と言った様な頂き方と言うのでしょうかね、する時が有りますね、
またそう言う方も居られますね
薬が治してくれた、
先生が治してくれた、
これでは神様が治してくれた、神様のおかげで病気が治った、
と言う事が有りませんね、
そう言う治り方と言うのでしょうか、
それでは神様が病気を治して下さったその甲斐が無いと言うのですね
つまり神様の御心に触れる事が無い訳です、
そう言う病気の治り方を何遍繰り返しても真の助かり、
真の救いを得ると言う事には中々近付きませんね、
やはり神様のおかげで、神様のおかげを頂いて、その病気なら
病気が治った、その難儀なら難儀から解放されたと言うのでしょうか、
そこに神様のおかげで、と言うものを実感する、
感じ取って行かねばならないのですね、
これはまた取次ぎの先生の役目の一つでもあろうかと思いますね、
お願いをした、そしたら病気なら病気が治った、
それが勿論取次ぎの先生も、神様のおかげで治ったのだと言う事を、
取次ぎの先生が先ず感じて、そしてそれを伝える、
そしてその事を分かってもらう、
と言う作業がそこになければならないと言う事ですね
お願いをして治った、それが良い薬のおかげで治ったと言う事で
あったのでは、神様の御働きを神様の御働きとして感じていない、
言わばおかげをおかげとして感じ得ていない訳ですから、
神様の御心に通うと言う事が有りませんね
人が真に助かる、その為にはどうしても神様の心を感じ、
神様の心と通い合う事がなければなりません
その為には、病気なら病気が治ったのが、
薬で治ったのではない、
神様のおかげで治ったのだ、と言う事が感じられる様な信心を
伝えて行かねばならないと言う事ですね
またそれを実感してもらえれる様な、
勿論取次ぎの先生も感じていなければならない
そしてそれをなる程、これは神様のおかげだ、
と言う事を分かってもらわなければならない、
分からせ得る取次者でなければならない、そうでなければ、
その人の真の助かりへと繋がって行かないからですね
神様のおかげを神様のおかげと感じさせる為の
神様のおかげ、と言う事なのですね
ですからどうでも私どもが、神様のおかげをおかげと感じる所に、
神様との心の交流も出来て来るだろう、神様の御心が分かり、
それこそ願い通りにならない時にでも、
神様の御心を感じ、そこに助かりを見い出す様になる、
とにかく神様との心の通い合い、
そこに初めて真の助かりが得られると言う事なのですね
ですからどうでも神様の心を感じさせる様な、感じてもらえれる様な
信心の稽古になっておかなければならないと言う事なのですね
どうでも神様のおかげを神様のおかげとして
感じられる、感じさせ得る様な、
何と言うのでしょうかね、
精進が求められると言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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