2022年8月3日水曜日

天地金乃神様との心の通い合いに生まれる救い (2022-08-03)

 今日も和賀心学 (2022-08-03)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


通常私どもが救いを感じるのは私どもの願いが叶った時だと思う。願いが叶わないと、助けてくれなかったと思う。師匠大坪総一郎師の信心によって得られる救いは一線を画している。それは天地金乃神様の御心に触れて、そこに頂く心の助かりである。神様と私どもとの心の通い合いに生まれてくる救いである。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 60頁)


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合掌

中原博信

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御神訓




今より何事にも方位は忌まず

わが教えの昔に帰れよ




金光教を真の宗教であると

世に宣言されたような御教えである




人間のつくった、自然に墨金(尺)をあてたような迷信を

打破せよとの御神意である




真の宗教 真の宗教

私どもは宗教と言いましょうか、信心をする




それはそこに救いを求める、助かりたい、

救われたいと言う思いから信心をさせて頂くのだと思いますね




中には趣味で信心をすると言う人も居られるかもしれません

何も難儀も無い、何も無い、ただ興味が有るから信心をすると




しかし大概の私どもはやはり助かりたい、救われたいと思います

その救われたいと言う思いからやはり信心に取り組もうと致します




そしてそこで救いを得られる。その従来得られる救いと、

師匠大坪総一郎師によるところの救いと言うのでしょうか




これは明らかに一線を画する所が

有る様に思いますね




どこが違うのか、それは師匠の信心によって得られる助かり、

救い、それは心からの助かりだと言う事ですね




心からの救い、私どもの心を救って下さる

そこに真の助かりへと導いて下さる事になると言う事ですね




では従来の救いとは、どちらかと言うと

今まで有った救いと言うものは私どもの願い事が叶う事による助かり




私どもがそこに救いを感じる、それは大体において

私どもの願い事を叶えてもらう、




そしてその願い事を叶えてもらった時に

救いを感じたり、助かりを感じると言う救われ方ですね




一方師匠が救って下さる救い方、助け方と言うのでしょうか

それは神様の御心を分かる、神様の御心が分かって、




その神様の慈愛と言うのでしょうかね、

御心に触れての助かり、救いである訳ですね




ですから私どもの思い、願いが叶うとか、叶わないとか言う事より

もう一つ深い救いと言うのでしょうかね




を得られると言う事になりますね




師匠の特異性と言うのはやはり神様の御心を伝えて下さった

そして天地とのコミュニケーション、如何に神様と通い合うか、




それはただ人と人とが言葉と言葉で通い合うと言うばかりではない

その人と人との心が通い合う様に




神様と私どもとのその心が通い合う、心の通い合いの世界

を教えて下さったと言うのか、伝えて下さった訳ですね




神様との心の通い合う世界、

その神様と心が通い合って助かる世界ですね




言わばあの、雨が降るからおじゃるなと言うに、

濡れておじゃればなお可愛い




これがもし言葉だけの世界であったならば

もう来なくていいよ、ああそうですか、で終わるのでしょうけれども




そこには心と心の触れ合いが有るから

もう来なくていいよと言われても




それでもやはり行かずにはおれない

これは心の交流が有るからですね




ただ自分の願い事が形の上に成就するから

そこに助かりを、救いを感じると言う救いでは有りませんね




神様と心が通い合う事による助かりですね、助かり方、

ですからそれこそ私どもの願い通りにならない事も有る




しかし願い通りにならないからと言って

救われない訳ではない




願い通りにはならないけれども その願い通りにならない、

そこに込められる神様の御思いが分かるから、




その神様の御心に触れるから、例え願い通りにならなくとも

そこに救いを感じる、助かって行く事が出来る




師匠が私どもを助けて下さる助け方、救い方、

それは天地の心に触れての、神様の御心に触れての、




そこから得られるところの助かり、

救いが有ると言う事ですね




どうでもそのただ願い事が叶う、

そこに救いを感じると言う世界から




もう一歩踏み込んで、神様の御心に触れての救い、

助かりを得なければなりませんね




そうでなければ心からの助かり、

真の助かりを得る事にはなりませんからね




そうなった時に初めて本当の意味での

和らぎ賀ぶ和賀心が頂けれるのだと思いますね




ただ願い事が叶う、形の上におかげが頂けれる、

そこに救いを感じると言う間では、




和らぎ賀ぶ和賀心を本当の意味で頂く事は出来ないと思いますね

和らぎ賀ぶ和賀心を本当の意味で頂く為には




神様の御心に触れての助かり、

救われ方を頂いて行く以外有りませんね




師匠が教えて下さる成行きを尊ぶ、大切にすると言う生き方に初めて、

神様の御心を感じさせて頂く、感得させて頂く




そこに神様との心と心の通い合い、

そこから得られる所の救い、助かりこそが真の助かりであり、




そこに初めてそれこそ火にも焼けない、水にも流されない

和らぎ賀ぶ和賀心が頂けれると言う事になりますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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