今日も和賀心学 (2022-08-11)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
信心において一番大切なのは「感じる」心です。師匠大坪総一郎師は一切が神愛と教えて下さる。聞けば、なる程そうなのだなと頭で理解出来る、また一切神愛は事実あるいは真実である。しかしそれで救われるかと言うと現実には救われない。一切が神愛だと心で感じ取った時に初めて救いが頂ける。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 75頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
信心する人の真の神徳を知らぬこと
ほんとうの魚好きは魚の頭を求めるという
身だけを求める人は、ほんとうの魚好きとは言えない
信心もおかげだけを有難がっておる人は
未熟の証拠である
ふつうの人では頂きかねるような問題でも、
それを御神意として受けとめていく
御神意がわかり
真の神徳にふれていくこともできる
おかげを有難がっている人は、
居る人はですか、未熟の証拠であると
おかげを有難がる、これは形の上に現れて来る、
その形だけを見ると言う事ですね
今朝は、信心には感じると言う事が大切だと、
そう頂きました、感じると言う事ですね
その何と言いましょうかね、例えば病気になる、
そして病気が治る、そこに有難いと感じる、神様のおかげを感じる
願い事をする、その願い事が叶う、そしてそこに有難いと、
神様のおかげだと感じる、これは形の上の事ですね、
まぁ事実と言うのでしょうかね、
病気が治ったと言う事実、自分の願い事が叶ったと言う事実
そこに有難いと感じる、神様のおかげを感じる、
ところが師匠の場合は、どうもそうではない様ですね
師匠のテキストビデオを、本物と言いましょうか、
先日はテスト版を作らせて頂きましたが
今度は本物をと思い、昨日作業をさせて頂きました、
もうあと少しですけれども、そこでハッと気付かされました事は、
その 10分程のお話ですけれども、
その中で語って居られる事、
それは自分の身の上に起こって来たその成行き、
その成行きの中に神様の御心を感じて居られる
そしてまたお知らせを、あるお知らせを頂かれる、
そしてそのお知らせの中に神様の御心を感じて居られる
その神様の御心を感じるところに、
言わば師匠の助かりを頂いて居られる訳ですね
その師匠の病気が治って退院した、
それで有難いと言うのではない
未だ病気は治っては居られません、
まぁ治る事はないと、その後も続いて居られますね
ただ言わば入院から自宅療養に変わったと言う事ですね、
多少はその危篤状態から脱する事が出来たと言う事ですけれども
そう言うその事実に対して、
有難いと感じて居られるのではありませんね
そのそこに神様の御心を感じる、
感じて助かりを頂いて居られるのですね
例えば一切神愛と教えて下さる、
その一切神愛と教えて下さり、なる程一切が神愛なのだと頭で分かる
そしてその頭で分かって、
助かると言う事も有りましょう
しかし実際現実の目の前に問題が起こって来ると、
中々頭では分かっていても、心がそう反応しませんね
頭では一切神愛と、なる程そうだなと分かるのだけれども、
心が如何せん納得出来ない、どうしてこれが神愛なのだろうか
と言う心が起こって参りますね、
頭で分かっただけでは本当の助かりにはならないのですね
そしてまた事実と言うものが有ります、一切が神愛だと、
なる程それが真実であり、事実がそうであると致しましょうか
ところが一切が神愛と言う真実が、事実がそこにある、
だから助かるかと言うと、そうではありませんね
真実はそうであったにしても、事実はそうであったにしても、
私どもが助かりを頂くと言う事にはなりませんね
もし事実が、真実が一切が神愛なのだと分かる、
分かれば皆が助かるかと言うと、そうは行きませんね
それでも中々助かりを頂く事は、救いを頂く事は難しい、
ではどこにその人間の救いが有るのか、
それを、師匠はその 10分間のお話の中に、
何か凝縮しておられる様な感じが致しますね
それは、感じる心です
一切が神愛と言う事実がそこに有る、
あるい一切が神愛だと理解したと言うだけでは助からないのですね
本当の救いを得る事は出来ない、
そこにそれこそ信心体験を通して、
なる程一切が神愛だなと感じた時に、
一切が神愛を感じた時に初めて救われるのですね、
ですから、感じると言う事が大切だと言う事ですね
神様の御心を感じる、
例えば今難儀だと思う事が有る、それをおかげだと感じる、
あぁこれはおかげに違いない、
この事によって神様が私の心を育てて下さる、その御働きだと感じる、
その感じるところに救いが有る、
救われる訳ですね
私どもの願いが叶う、と言うそこに事実が有る、
病気なら病気が治る、と言うそこに事実が有る
だから助かると言う訳ではない、
と言う事ですね
一切が神愛と言う真実がそこに有る、
だから人が助かると言う事ではないと言う事ですね
その一切が神愛だ、その事が神様の御働きだと感じる、その
感じるところに、私どもの助かりが有る、心が救われると言う事ですね
ではどうやってその感じるか、と言うその神様の御働きを、
神様の愛を感じる、感じ方を師匠は身をもって示して下さった、
と言えるのではないでしょうかね、
例えそこに美味しい果物が有ったとしても、
それを食べて美味しいと感じれないならば、
美味しい果物ではありませんね
美味しいと感じる、感じれれるからこそ、
美味しい果物である訳ですね
ですから私どもが感じる、
どう感じるかと言う事が大切だと言う事ですね
その感性を磨いて行かねばなりませんね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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