今日も和賀心学 (2022-08-07)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
師匠大坪総一郎師の信心の基本姿勢は、梅の香りを桜に持たせ枝垂れ柳に咲かせたい、です。更にその根本姿勢に常に、本当からより真実(ほんとう)を求める求道精神を貫いて居られました。梅の信心辛抱、桜の華やかさと潔さ、柳の風まかせ。昨日の本当から、今日のより真実へと言うところでしょうか。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 167頁)
ビデオ: https://youtu.be/pKSpxBpVoVU
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2022-audio/08-audio/Wagakokology_Labo-jp-2022-08-07.mp3
合掌
中原博信
(ブログ): https://wagakokology.blogspot.com
(Blog-en): https://wagakokology-en.blogspot.com
(ホームページ): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/
(ポッドキャスト): https://anchor.fm/wagakokology-jp
(初代/ポッドキャスト番組名): 大坪総一郎師御理解集
(初代/ポッドキャスト): https://anchor.fm/wagakokorogaku
(初代/ポッドキャスト番組名): 大坪総一郎師御理解集 第2集
(初代/ポッドキャスト): https://anchor.fm/wagakokorogaku-2
(スカイプ会議リンク): https://join.skype.com/ZrgSr5pB6gvS
-------------------------------------------------------
御神訓
子を産むは わが力で産むとは思うな
みな親神の恵むところぞ
その気にならぬでも催しがあれば其の気にならざるを得ません
生むまいと思うても生まれ、生みたいと思うても生まれない
気張る力も自然出てくる
「気張り」もみんな神さまの御はたらきとわかる時、
一切が神さまのおかげを頂かねばという心も出てくるのです
生みなす信心と最近言われますが、この厳粛な神の摂理にもとづく時、
はじめて真の生みなすおかげに会うことが出来ます
気張る力も自然出てくると
神様の御働きの中で、と言う事ですね
その神様の御働きを十全に頂き、現すと言うのでしょうか
その為の基本姿勢と言うものがやはり要ると思いますね
師匠大坪総一郎師の信心に対すると言うのでしょうか
これは人生に対するとも言えると思いますが
その基本姿勢、それは端的にお歌で表して居られますね
梅の香りを桜に持たせ、枝垂れ柳に咲かせたい、と言うものですね
梅の香りですから、
これは信心辛抱と言う事でしょうね
で、桜に咲かせる、桜の華やかさ、
そしてまた潔さ、散り際の潔さと言うのでしょうか
そして枝垂れ柳、柳の風任せの、なよなよとした風になびいている、
その風に逆らわない、言わばその成行きをひたすら頂いて行く、
と言う姿勢でしょうかね
この、梅の香りを桜に持たせ、枝垂れ柳に咲かせたい
と言う基本姿勢が要りますね
と同時に、もう一つ師匠の基本姿勢と言うのでしょうか
根本的な精神と言うのでしょうか
それは本当から、より真実を求める
と言う姿勢ですね
今日の絶対は今日の絶対だけれども
明日の絶対はまた変わるかもしれない
それは明日になってみなければ分からない
それは明日神様がより本当の事を、
より真実な事を教えて下さるかもしれない
そしてそのより真実な事が分かる、あるいは教えて頂く、
そしたら昨日までの本当は、それはかなぐり捨てる、
言わば桜の潔さですね
いつ迄も昨日はこうだったと言った様な
これまではこうだったと言う様なものを
いつ迄も引きずらない
より真実の事が分かったら、それまでの本当は確かにその時点では
本当であったかもしれないけれども、潔くかなぐり捨てる、
そして新しいもの、より真実なものに移って行く、
と言うその姿勢の繰り返し、一回だけじゃいけませんからね
その繰り返し、積み重ねと言うのでしょうか、それによって
師匠の信心が進まれた、心が進まれたと言う事になりますね
そう言うものを神様が教えて下さる
そして神様は、そういうお方だと言う事ですね
本当からより真実へ、
より真実の事へと導こうとして居られる神様だと
ですから、私どももその今の本当と言う事に 5年も、10年も、100年も
それこそそこで拘泥すると言うのですか、止まってはならないと
神様が次のより真実の事を教えて下さったら、
そのより真実の事に潔くスッパリと切り替えて行かねばならない
と言う所も有る様ですね
残さねばならないものと、また切り捨てて行かねばならないもの、
この両方が有ると言う事を、そこをよく見極めて行かねばならない
それは成行きの中で、神様の御働きの中で
と言う事にもなりましょうね
そして次の段階へ、次のステップへ神様が導いて下さる
と言う事ですね
実は私も今までは、音、
初代の御理解の音声の録音にこだわって居りました
何とかそれこそ雑音に埋もれた様な初代の御理解でも、
一言でも聞き漏らす事なく聞ける様な方法はないものだろうかと
色々思って居りました、そしてそれをなるべくなら良い音質で
後世に残せるものならば残したいと
現実には私が全部を作業する訳ではありませんから
残るものしか残っていないと言うのが現実ですけれども
しかしそれでも心の中にはやはり可能な限り良い音質で後世に残したい
と思う人もやはり居らねばなりませんし、
現場で作業をすると言う事になると、
そうばかりも言えませんからね、それでは作業が捗りませんから
そうして居りましたら最近私の中で、
最近始めましたのがテキストビデオですね
初代の御理解をテキストで表示しながら、
そして尚かつ初代のお声と言うのでしょうか、
初代の映像と言うものでしょうか、
それを流したいと言う思いが出て来ました
そうすると、それこそ耳の聞こえない方にも勿論見て頂ける、
読んで頂ける、また耳が聞こえる方、
目が見える方は師匠の映像をそのまま見て頂く事も出来る
そう言うものを作りたいなと思うのですね
でまあこれは一番手っ取り早いのは自分のですから
自分ので試してみましたら、何となく出来ました
で大体こうすれば良いなと言うのが分かりましたから
愈々師匠の御理解、映像で試してみたいと思い、試してみましたら
これがもう師匠の映像が、やっぱりもう何十年も前のビデオですから、
私が修行に入った当時は未だ白黒のビデオでした
それで月例祭を撮って居りましたが、
照明もビデオ用の照明ではありませんから
暗い中で僅かな光で何とか撮れていたと言う状態ですね
そのビデオ録画に気を使った照明ではありませんから
どうしても暗い訳ですね、画面が暗い、
そしてその暗い中で撮っておる、
それも何十年前の映像ですから大変ノイズが多い、
それも目を凝らして見れば、師匠の映像とし見れる訳です
それが師匠に恋焦がれると言うのでしょうか
師匠に憧念心を持っておる者には、なる程そこに味わいも有るだろう
しかしこれが一般の人に観てもらおうと思った時には
あぁこれはもうザラついてて映像が悪いからもう観るの止めようと
言う事にもなりかねないな
と言う感じなのですね
ですから例えば骨董でもそうですね、
骨董品だと、そこに価値を見い出す、
そう言う人達にとっては
堪らないものが有りますね
しかし一般の人、私ども一般人、その良さが分からない者達には、
一見して値打ちが無いならそれまでなのですね
ですからその一般の人にも認めてもらえれる様な
それこそ通の人にも認めてもらえれる様なそう言うものを
これは作って行かねばならないのかなと
思わせられているのですね
またもう一つ、神様がより真実の所へ
導こうとして下さっているものを感じますね
音だけの世界から、映像の世界、
それもそこにまた文字が加味される、
音と、文字と、映像が一つになった世界、
そしてそれが誰にでも受け入れてもらえれる様な、
より多くの人に伝わって行く様な、より多くの人が観てみたい、
聴いてみたい、読んでみたいと思うて下さる様な、
そう言うものが出来ないだろうかと
何か神様がまたより真実の事を、もう一つ進んだ先の、
もう一つ次元の上がった世界と言うのでしょうか、
もう一段次元を上げて、
それこそ真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよと、
神様が仰って居られる様な感じが致しますね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
0 件のコメント:
コメントを投稿