2022年8月15日月曜日

師匠大坪総一郎師の流儀の一つは、この天地金乃神様は情念の神様だと言う事だと思う (2022-08-15)

 今日も和賀心学 (2022-08-15)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


信心にもやはり御流儀が有る。師匠大坪総一郎師の流儀の一つは、この天地金乃神様は情念の神様だと言う事だと思う。師匠の到達された境地「一切神愛」を如何に伝え、理解を得られたとしても人の助かりには遠い。神様との情念の通い合いの中に、一切が神愛と肌身にまた心に感じられたとき初めて救われる。神様を感じさせる為におかげを授けると言うこともある。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 166頁)


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合掌

中原博信

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御神訓




子を産むは わが力で産むとは思うな 

みな親神の恵むところぞ




暑ければ涼しいところを、寒ければ暖かい所をえらぶことは出来ても、

暑さ寒さを人間の力ではどうにも出来ぬように、




子を産むにも安産のための方法は講じても、

ぎりぎりのところは神の恵みを受けねばならぬ




人間の力みだけではどうにもならぬもの

出来た所で不自然になるばかりだ




自然の働きと共に相まってのおかげをうけることが大切である

無理がないから、のちのちまでのおかげになる




ここの道理は、

すべてのおかげに通ずることである




全てのおかげに通ず事である、

と教えて居られます




全てのおかげ、おかげにも自分の都合の良い様になるおかげも有れば、

自分の都合の悪い事になるおかげも有りますね




大概は自分に都合の良い事になる事を

おかげと言うのでしょうけれども、




一切合切がおかげと頂けれる様になると、

有難い事ですけれどもね




信心の御流儀と言うものが有りますね、

やはりその先生の体得された御流儀と言うものが有る様に思います、




その師事する先生の御流儀に則って信心の稽古をさせて頂く、

先ずはそこからではないのでしょうかね、




その習い事の基本と言うのでしょうか、

それを言われた言葉に守破離と言うのが有るそうですね、




先ずは守、その守ると言う事、師匠の信心、

御流儀を先ずは守らせて頂くと言う所から入るのではないでしょうかね




そう言う意味において、

師匠大坪総一郎師の御流儀は何だろうかと思います、




それはやはり師匠は、この神様、天地金乃神様は情念の神様だと、

よく仰って居られましたね




師匠と天地金乃神様との間柄と言うのでしょうか、

それはやはり情念で繋がって居られた様に思いますね




ですから私どももやはりその師匠の弟子である限り、

情念をもって神様と通う、




そこがやはり守られねばならない

先ず第一の所ではなかろうかと、




またそこによって初めてこの神様と、それこそ師匠を通して、

通い合う事も出来る様に成るのではないでしょうかね




中でも師匠の最後の、最後ではないでしょうけれども、

到達された境地の一つに一切神愛と言うのが有ります




この一切神愛も、一切神愛と分かったと、

分かったと言うだけでは人は助からない、




一切神愛Iはそこら辺に遍満して居る訳ですからね、

その一切が神愛と分かっただけでは、人は助からない、




と私は思うのですね、

ではどうしたら一切神愛で人が助かる様になるか、




それは人々が、一切が神愛だと感じる、

一切神愛を感じた時に初めて助かる事が出来ると思うのですね、




感じると言う、

いわゆるこれは情念ですね、




その情念をもって、なる程一切が神様の愛の現れだと感じた時に、

初めて人が助かると言う事ですね




ですから一切が神愛だと人々に理解してもらっただけでは、

人は真に助かる事はないと言う事ですね




この辺が大変微妙な所ですけれども、

師匠の御晩年を振り返ってみますと、




そのもう際立った教えと言うのでしょうか、ハッとする様な教え

と言うのでしょうか、それはもう余り無かった様に思いますね




それこそもうこれ以上深める事は要らん、高める事は要らん、

今まで説いて来た事を復習して下さい、と仰られた様に




もう高めたら息が出来なくなる、

深めたらまたガラクタが出て来るかもしれない、




と言う生身の人間がおかげを頂いて行く、助かって行く、

と言う上においては、一番良い所に居ると言う事なのですね、




そう言う教えだと、

生身の人間にとってと言う事ですね、




そして師匠の御晩年は何の為に有ったのか、

今思います時に、




これは感じさせる事の為に有ったのではないだろうかと、

思わせて頂いています、




いわゆる教えを伝える事はもう十分だと、出来たと、して来たと、

これからはそれこそ神様を感じさせる、




そこに取り組まれたのではなかろうかと

言う感じが致しますね




一切神愛と分かっただけでは人は助からない、

一切神愛と人に伝えただけでは人は助からない、と言う事なのですね




その人々が一切が神愛と実感した時に、

それを感じさせ得た時に初めて人が助かる、




助かりの世界に入る事が出来る、

と言う事なのですね




この師匠が体得されたその御流儀、

それはやはりこの神様は情念の神様だと、




神様と情念を通わす、そこに頂けれる助かり方、

助かり様を、身をもって示して下さった、




また人々にその感じる神様、感じる事によって助かる道を

体得してもらいたいと、願って居られたのではないかと思いますね




どうぞよろしくお願いいたします




その神様を感じる道は、

成行きを尊ぶ、大切にすると言う中に有ると言う事ですね




ありがとうございます



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