今日も和賀心学 (2022-08-22)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
今朝頂きますのは、信心とは自らの心を育てる為にするものであると言うこと。ここに焦点が定まると信心が楽になります。食物は人の命の為に天地の神の造り与え給うもの、成行きは人の心を育てる為に天地の神の造り与え給うもの、と言う事です。心を育てる第一は、一切を受けて根肥やしとする土の心です。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 392頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第66節
人間は勝手なものである、いかなる知者も徳者も、
生まれる時には日柄も何も言わずに出てきておりながら、
途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、
死ぬる時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる
教祖様ほど素朴な生き方をなさった方はあるまい
しかも天地の道理に基づき『討向かう者には負けて時節に任せ』
と言う生き方こそ土の心であろう
人間は土より出でて土に還ると言われる、その道中とても
土の心を身につけての生き方こそ、御道の信心者の神髄でもあろう
御道の信心者の神髄、
それは土の心を身に着ける事だ、と言う事になりますね
今朝頂きますのは、
信心、信心をするとはどう言う事だろうかと、
信心とは結局私どもの心を育てて行く事だと、
信心とは自らの心を育てる事、と言えるのではないでしょうかね
普通はやっぱり信心と言うと、
神様のおかげを頂く為に信心する、と言う様な事ですけれども、
やはりその本質と言うものは、私どもの心を育てて行く、
これが信心だと、そこに信心のそれこそ焦点と言うものでしょうか、
それが定まる事が大切だと思いますね、
そのではどう言う心を育てるのか、と言う事になりますが、
その第一が、今朝頂きます土の心と言う事になりますね、
いわゆる土は大地ですね、
それこそおしっこでも、唾を吐かれたり、
水をかけられたり致しましても、
黙ってそれを受けます、黙って受ける、
そしてそれを肥やしとします、
そして肥やしとして綺麗な花を咲かせたり、美味しい実を稔らせたり、
言わば色々なものを育てる滋養と致しますね
言わば自らの心を育てる素にする、自らの心を、
一切合切を自らの心を育てるその素として心を育てて行く、
それが土の信心、
土の心ではないでしょうかね、
ただ受けると言うだけではない、
受ける事によって自らの心を育てて行くと言う事ですね、
この信心とは自らの心を育てて行くと言う事、
そこに焦点が定まる事が大切ですね、
教祖様は、も、信心とは我が心が神に向かうのを信心と言うのじゃ、
と教えて下さいますが、
その我が心が神に向かうと言うその、
心が神に向かう内容がどうあるのか、
ただ神様の方向を向く、顔を向けると言うだけではありませんね、
それこそ神に向こうての精進と言うのでしょうか、
我が心が神に向かう、それは神様の方向に向かって行くと言う事、
神様の方向に向かって心が育って行くと言う事、
私どもの親である神様、その親である神様、
その心に向かって私どもの心が育ち進んで行くと言う事、
これが神に向かうと言う事
ではないでしょうかね、
私どもの心が育つと言う事が、神様に向かって育って行くと言う事が、
神に向かうと言う事の内容であろうと思いますね
今朝はそう言う事を
教えて頂いた様に思います
実は昨日食事中に、何か硬いものが口に感じましたので、
よく見てみましたら、
その差し歯ですか、前歯の差し歯が抜けて居りました、
あぁまた歯が抜けたと、
これは愈々歯が無くなったなと、歯無しと言う事ですね、
神様がそれこそ話をして行けと仰って居られるのだなと、
愈々話をして行かねばならないのだなと、
思わせられた事でしたけれども、
その一つ一つの成行きを通して、神様の御心を感じさせて頂く、
そしてそこに私どもの心を育てて行く、
それこそ話をして行けと言われる事だな、と思ったら、そう感じて、
そしたらその話をして行く、そこをさせて頂く訳ですけれども、
これはやはり私どもの心が一つ一つ育つ事、そこに焦点を
定めて居りませんと、中々成行きを頂くと言う事が出来ませんね
自分に都合の良い事が起こる事、
その都合の良い様に事が運ぶ様に祈り、願う、
そこ止まりの信心であったのでは、
何かつまらないと言うのか、進展が有りませんね
やはり信心は自らの心を育てて行く事、
そこに焦点を置いての取り組みである、
そこに焦点を定めさせて頂く、
そう言う心が先ず育たねばなりませんね
そこに自らの心を育てるのが信心だと、
そこに焦点を定めての教えを頂くであり、
成行きを頂くであり、
その一切である、
食物はみな人の命の為に
天地の神の造り与え給うもの、
成行きはみな人の心が育つ事の為に
天地の神の造り与え給うもの、と言う事になりますね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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