今日も和賀心学 (2022-08-28)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
このお道は教祖様が天地金乃神様からの、欲を放して難儀な氏子を取次ぎ助けてやってくれとの神頼みをお受けになられた所に始まる。ここで大切なのは、神様から人助けの頼みをされる様な私どもに育たねばと言うこと。人が発行する免許が有るからと言って神様の御働きが現れる訳ではない。神様発行の免許を頂かれるように育たねばと言うこと。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 70頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
信心してみかげのなき時は
これぞ不思議なることぞ
打てば響くおかげの受けられるのが、
お道の信心です
私は、初めてお願いに参ってくる信者に
必ずおかげの験が見えてくるから一心にすがって来い、と申します
ところが大概の人が
後の信心が続きません
打てば響くおかげの受けられる御道だと
師匠を教えて下さいます
その打てば響くおかげが頂けれる
さあどこからそのおかげが頂けれるのか
この御道は教祖様が神様から、
難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ、
との神様からの、天地金乃神様からのお頼みを教祖様が受けられ、
それに応えられた所から始まるのだと思いますね
神様が教祖様に、取次ぎ、人を助けてやってくれ、
と頼まれたと言う事、ここが大切だと思うのですね
そしてそれを教祖様が、それならばお役に、御用に立たせて下さいと、
その神様の願いを、頼みを受けられた、そこから始まる
先ず私どもが神様から、その取次ぎ助けてやってくれと言うその、
難儀な氏子の願いを神様に取次ぐ、その取次ぐ御用をしてくれと、
神様から頼まれなければならないと言うところが、
いわゆる御道の教師には要る訳ですね
実は今朝は、私どもが、あれは 4人でしたか、学院に行かせて頂き、
教師になる為の何ですか、勉強をですね、
そして夏休みに帰って来て、
師匠大坪総一郎師の元にご挨拶に行った時に、
師匠から御理解を頂いた事を思い出させて頂いたのですね
色々頂きましたけれども、今日頂きましたのは、
そのこうやって学院に行き、
教師になる為の修行をさせて頂く、
そして御本部からいわゆる免許状、
教師としての、取次者としての、
取次者としてと言うよりか、
御道の教師としての免許状を頂く事になるだろうと、
しかしそれはどこまでも御本部から頂く免許状であって、
神様から頂くものではないと、
ですから、まあその中には御本部からは
確かに教師としての免許を頂くだろう、
けれどもそれだけでは人は助からないよ、
と言う様な事が暗に込められている御理解でしたね
神様から教師としてお取り立て頂けれる様な、
取次者として神様から使うて頂く、
その神様からの免許状を頂けれる様に
修行しなくちゃいけないよと言う事でした
なる程 1年間、或いは特科では 1ヶ月ですか、
御本部で修行をさせて頂けば、
そして申請すれば、教師としての資格を頂く、
その免許と言うのでしょうかね、下りるだろう、
けれどもだからと言ってそれで人が助かると言う訳ではない、
と言う事なのですね
神様からの、取次者としての免状と言うのでしょうか、
それを頂かなければならない、と言うある意味厳しい御理解ですね
ただ御本部で 1年修行した、それで教師としての免許をもらった、
さあこれで人が助かるぞ、と言う訳にはいかないと言う訳です
神様からの、人が助かる為の、取次者としての免状を
もらえれれる様に修行しなさい、と言う事ですね
教祖様が神様から、取次ぎ助けてやってくれ、と頼まれた、
言わば神様からのお頼みを受けられた、そこに人が助かる様になった、
ですから私どもも、これは取次者の話ですけれども、
取次者として神様から、よしこの氏子を使うてみようと、
例えば会社なら会社に就職試験を受けますね、そしてその雇い主から、
この氏子、まあこの人はどうかなあ、うちの会社には合わないなあ、
またそれ相当の働きをしてくれるとは思えないなあ、
と思う様な人はやっぱり採用しませんね
誰も彼も採用すると言う訳にはまいりません、
やはりそこに、あぁこの人なら会社の為に働いてくれるだろう、
役に立ってくれるだろうと思えれる人、
それこそ給料を払ってでも、うちの会社で働いて下さいと、
働いてみませんかと、思われる、
そう言う私どもにならなければならないと、
それこそ神様から、あぁこの氏子なら人を助ける、
取次ぎ助けるその取次者としての御用を全うしてくれるだろう、
と神様から認められる、
神様からこの氏子ならば、この氏子に人助けを頼もう、
この氏子に取次ぎを頼もう、
と信頼がされる氏子と言うのでしょうかね
神様から、神様の目に適う私どもにならなければ
とても取次者として神様の免状を頂く事は出来ない、
と言う事なのですね
ですから先ず第一は、神様から、天地金乃神様から、
取次ぎ助けてやってくれと願われる様な、
神様の目に適う様な私どもでなければならないと、為には
どう言う私でなければならないか、と言う事が大切になりますね
やはりそれは神様を大切にする人、
自分の会社を、何と言いましょうかね、利用しようとしたり、
自分の懐に何かを入れる為に会社を利用する、
と言う様な事であったのではクビになってしまいますね
やはりどこまでも、昔の様な考え方かもしれませんけれども、
会社の為に尽くす、
どこまでも自分の懐を肥やす事ではなく、神様の懐を肥やす、
どこまでも神様のお役に立たせて頂こう、立たせて頂きたい、
私利私欲ではなく、神様のお役に立たせて頂こう、
と言う事が先ず最低条件にはなりますよね
神様も教祖様に、欲を放して、
いわゆる御用をしてくれと仰って居られますね
取次者が私利私欲が有ったのでは、
取次者として神様が使うて下さらない、と言う事でもありますね
神様の目に止まり、
神様から神頼まれる様な私どもにならねばならない、と言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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