2023年1月30日月曜日

成行きを願い、成行きを頂く (2023-01-30)

 今日も和賀心学 (2023-01-30)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


今朝は、「成行きを願い、成行きを頂く」と頂く。信心が進むに連れて愈々欲が強く深くなる。段々に我情我欲は薄らぎ、別の欲が、天地金乃神様の心を心とした欲が強くなる。それは、人を助けたいと言う欲。吾無力を悟り、人を助けさせて下さいと言う願いが愈々強くなる。氏子が助かる為の成行きを願う。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 285頁)


ビデオ: https://youtu.be/g_fwHMPMh7k

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-30.mp3


合掌

中原博信

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御理解 第31節




信心する者は、木の切り株に腰をおろして休んでも、

立つ時には礼を言う心持ちになれよ




信心して、いよいよわからして頂くことは、

すべてが有難しとお礼を申し上げねばならぬことばかり




御礼の対象にならざるはなし

そこから真のおかげの道が開かれてくる




すなわち『道不孤(みちはこならず)』である

但し、ここに思わせられることは、おかげの頂き過ぎである




お礼もさることながら、

御礼そしてお詫びが切実になされねばならぬことを思う




お詫びと申されております、

しかしこの時は、昭和 45年です、




それから何年かして、師匠はお詫びは、

いけないと言うわけではないですけれども、




お詫びと言う事にはまってしまうと、

人が助からなくなる、




その更に、お詫びから、願いの信心、

と言う事に入って行かれましたね、




確かにあれはどなたでしたか、

詫びて悲しゅうなればおかげを授ける、でしたか、




何かその様な教えを頂かれた先生が居られた、

と思いますが、




その自らの、何と言いましょうかね、不徳さと言うのでしょうか、

至らなさにお詫びを申すと言うのでしょうか、




三代金光様でしたか、

御礼の足りぬお詫びばかり申しております、でしたかね、




そう言うある程度のお詫びと言うのは良いのでしょうけれども、

それがお詫びが高じてしまうと言うのでしょうかね、




自分を苛んでしまう程しになってしまうと、

今度は却って人が助からない、




自分自身が助からない事にも繋がりかねない、

微妙な所が有りますね、




ですからある時点からは、そのお詫びの信心から脱して、

寧ろ御礼、あるいは愈々は、お願いの信心、




それこそ、お詫びをせずに居れない私であるけれども、

言わば信心が出来てない私にも関わらず、この様なおかげを頂いて、




と、今度はお詫びの信心から、御礼の信心へと、

育って行かねばならない、




その一過程においてのお詫びの信心だと、言う事なのですね、

そしてそれが、お詫びも足りない私です、




と言うそのお詫びを申さずには居れないけれども、

おかげを頂いて、有難いと、




寧ろお詫びを超えて、御礼の心が湧いて来る、

そして更に、御礼の心から、今度はお願いの心が湧いて来る、




その、師匠は、やはり願いの信心が最高峰だと、

仰って居られました、




では何を願うのかと言う事になりますね、




願うと言っても、身欲身勝手、我情我欲の事を願う、

そう言う信心が最高峰だとは思えませんね、




成行きを願い、成行きを頂く、と今朝は頂きました、

それこそ成行きを願うと言うのがあって、




そしてなる程、成行きを願うからには、

それを受ける、と言う事が出来るわけですね、




いきなり成行きが来ても、中々受けるのは難しい、

しかしそこに、成行きを願っておれば、




ああ願って居る、そこから生まれて来た成行きだ、

と思えば、頂けれるわけですね、




私が修行に入らせて頂いて、数日した後でしょうか、

ある御祈念中にお知らせを頂きましたが、




その事に対して、

師匠が御理解下さいましたのが、




ここに、力を受けたいと思って、修行に入った、

そしてそこに、神様が、力をやらないよ、と言われる、




それならば、

力を下さい、と願うであろうと、




神様がやらないと言われたら、

それでも下さい、下さいと縋って行かねばならない、




そしてそこに、縋って行くからこそ、

言わば、力を下さいと願うからこそ、




そこにその力を下さる元である、修行なら修行、

成行きなら成行きを神様が下さる、




そこに、それならば、この修行も、

力の元になるこの修行も頂きます、




と頂いて行く事が出来るようになるだろう、

と言う事でした、




言わば願うから、頂く、と言う事ですね、

どうも私には、神様がたてがわれる様な所が有る様なのですね、




力はやらんよと、私はどちらかと言うと、

やらんよと言われたら、いらんよと、




何ですかね、そう言うてしまう様な所が有りますけれども、

師匠は、やらんよと言われたら、それでも下さい、




と縋って行かなければならないと、それは何故か、

我が身勝手の我情、我欲の為に願う願いではない願いだからですね、




成行きを願う、そして成行きを頂く、




それでも我情我欲の成就する事の為に成行きを願い、成行きを頂く、

と言う時代も有りましょうけれども、




そこからもう一歩先に進んで、

今朝、もう一つ頂きますのは、




人を、それこそ人様を助けさせて下さい、

と言う願いが愈々強くなって行かねばならないと、




私どもが我情我欲が無くなる、

それならば、それで良いのかと言うと、




我情我欲が無くなった次には、また欲が愈々膨らんで来る、

その欲が強くなって来る、それはどう言う欲か、




神様の心を心とした欲が強くなって来なければならない、

育って来なければならない、それは、人を助けたいと言う欲だと、




教祖様も仰って居られますね、

だんだん、大欲が有りますと、




人を助けたいと言う欲が私にも有りますと、

仰って居られます、




その人を助けたいと言う欲が、

信心をすればするほど強くなって来なければならない、




言わば貪欲なまでに人の助かりを願う、

人を助けたいと言う欲が強くなって来る、




そして、自分では助けられない、助ける力が無い事が、

また同時に分かって来る、




そこに、それでも助けたい、

そこに神様、どうぞ人を助けさせて下さい、




人が助かるお役に立たして下さいと、

人を助けたい、と言う欲が強くなり、




そこから更に、人を助けさせて下さいと言う欲が、

愈々深まる、強まって来ると言う事ですね、




それは、もし私どもに中途半端に人が助かっておれば、

そこ止まりかもしれません、




寧ろ人が助からないと言う現実が有るからこそ、

より一層人を助けたい、人を助けさせて下さい、




と言う欲が、愈々膨らんで来る、願いが強くなる、




神様が、お前には力はやらんよと、言われれば言われるほど、

どうぞ力を授けて下さい、と言う願いが強くなる、




強くなって行かねばならんよと、

師匠は教えて下さったわけですから、




人が助かれば、それこそより一層人が助かるようにと願い、

人が助からねば、より一層人が助かりますようにと言う願い、




が強くなる、そう言う欲が深まって行くと言う事ですね、

そしてそこに願われる願いが、




どうぞ人様が助かられる様な成行きを頂かして下さいと、

そしてその、ある相手の方のその人の身の上にでも、




その人が助かられる様な成行きが起こりますようにと、

その成行きを大切にして行きさえすれば、人が助かる、




と言う私の身の上における成行き、

そして相手の方の上における成行きをも願うと言う願い、




どうぞ成行きを大切にして下さい、あなたが成行きに大切にすれば、

必ずあなたは助かります、救われます、と言えるように、




言わば、その人に起こる成行きを願う、

と言う成行きの願い方ですね、




成行きを願い、成行きを頂く、

自らの成行きだけではない、




人様の身の上に起こって来る、その人を助けようとする成行き、

神様の御働きが現れる事を願うと言う事ですね、




どうでも、人が助かりますように、人を助けたい、

と言う願いが愈々強くなり、




そして、人を助けさせて下さい、

と言う願いが、また育ち、強くなり、




そしてそこに、人が助かる様な成行きを、神様起こして下さい、

起こさせて下さい、と言う願いが強くなる、




成行きを願い、成行きを頂く、

と言う事になりますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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