今日も和賀心学 (2023-01-21)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
信心は山登りに例えられる。教祖様が、おかげは和賀心にあり、天地日月の心になること肝要なりと御教え下さるその頂上、和賀心、天地日月の心に至る道を開き、整備して下さったのが師匠大坪総一郎師と言える。その道開きの元は、本当からより真実を求めての求道精神に有ると思う。師匠を手本とする信心。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 220頁)
ビデオ: https://youtu.be/60pAmr8TKlg
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-21.mp3
合掌
中原博信
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御理解 第9節
天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ
信心は心を狭う持ってはならぬ、心を広う持っておれ
世界を広う考えておれ
世界はわが心にあるぞ
せまい心で大きな願いをたてても無理なはなしです
先ずは広い心を願い、その修行をせねばなりません
だまって治める信心、即ち土(どろ)の信心
心は自ずと大きく広く豊かになってまいります
清濁一如の信心もわかります
大願の氏子の上には特別の、
親神さまの働きが受けられます
大願の子、大きな願いを持つ氏子、と同時にまた、
神様が大きな願いをかけられる氏子、
と言うその両方の意味が有ると思いますね、
神様が、私どもに大きな願いをかけて下さる、
と同時にまた、それに答えて、私どもがまたその大きな願いを持つ、
と言うその両方が相俟って行かねばならないのだと思いますね、
私どもが願いとする、言わばその大きな信心、大きな願い、
ところがその、やはり何事にもお手本と言うものが有りますね、
習字なら習字の稽古の手本が有る、
一番最初に始められた方、
野球なら野球でも一番最初に始められた方は、
見よう見まねと言うのか、見よう見まねも無いわけですから、
その何と言いますかね、独力で作り上げると言うのですかね、
そう言うものであったのかもしれませんけれども、
それこそ手探りの状態で作り上げる、
あれが良いか、これが良いかと様々に迷いながら作り上げる、
と言うのでしょうけれども、
その後々の者は、もう既にそこに道が有る、
言わば山登りで言えば、そのどのルートを通って登ったら登れるか、
道なき道にその道をつけると言うのでしょうかね、
ただ、山のてっぺんに登ると言っても、
今まで登った事が無い、そこに道が無いわけですから、
誰かが登って、このルートで行けば登れる、と言うその道をつける、
しかも、険しい道も有れば、安全な道も有るわけですからね、
真っ直ぐ登るわけには参りませんから、
やっぱりなるべくなら、安全な道を通る事になりますね、
そして、より安全に、誰でもが頂上まで登れるように道づけをする、
ルートを残すと言うのでしょうかね、
そう言う役前をする人が有りますね、それは例えば、
信心で言えば、教祖様でもおありになると思いますね、
私どもの身近な所で言えば、
それは、師匠大坪総一郎師だと言う事になりますね、
その、どうやったらその山の頂上と言うのでしょうか、
信心の頂上と言うのでしょうか、
和賀心と言うのでしょうか、教祖様は確かに、
おかげは和賀心にあり、
と私どもが目指すべきてっぺん、和賀心、
と言うその状態を示されたけれども、
そのどうやって和賀心になるのか、
と言うその道を確かに示しては有るのでしょうけれども、
よく分からない所が有りますね、
天地日月の心になること肝要なり、
と言うこの御教えも一言ですね、
残されておる文献の中でも、
それの原型になる様なものは有るのかもしれませんが、
天地日月の心になること肝要なり、と言うのは、
確かたった一言だったように思いますね、
ではその天の心とは、地の心とは、
日月の心とは何なのか、
そしてどう言うやり方で、
その天の心を、地の心を、日月の心を身に着けるのか、
と言うその手立てを詳らかにはして居られませんね、
その手立てを詳らかにして下さったのが、やはり師匠ですね、
その師匠自らが、やはりその山を登り、
そのルートを、道づけをして下さったと言う事になりますね、
こうすれば、山に登れるよと、こうすれば和賀心を頂けれるよ、
こうすれば、天地日月の心を身に着ける事が出来るよ、
と言う言わば、自らが体験された、
見本でもあり、手本でもある、と言う事ですね、
ですからだからこそ、後々の者が、
後に続く者がその道を辿る事が出来る、
為には、やはり何事にも、
習字においても、見本、手本と言うのが有りますね、
その手本の通りに書けば、それこそ字が上達すると、
ただ闇雲に字を書けば良いと言うのではない、
それこそ我流と言うのでしょうか、
その我流で、自分の得手勝手に字を書いて、
それで字が、習字が上達すると言うのではない、
ここはこう入って、ここはこう止めて、ここはこう撥ねて、
と言う様な、その見本、手本に沿うて稽古をするから、
字が上達する、と言う事ですね、
それは、信心もまた同じだと言う事ですね、
師匠が自らが手本となられて、
こう言う信心をしたら、信心が上達するよ、心が育つよ、
こうやって信心の稽古をするのだと、
それこそ成行きを通して、
この成行きの中で土の心を身に着けて行くのだ、
天の心を身に着けて行くのだ、とまた
神様とはこう言うふうにして交流するものだ、
と言った様な、師匠大坪総一郎師と、天地金乃神様との
交流の仕具合と言うのでしょうかね、
こう言うお知らせを頂いたら、それはこう言う意味だ、
と言った様な、手本を師匠は示して下さった、
その師匠に見習って信心をさせて頂く、と言うのがやはり、
信心が上達すると言う上での一番の近道だと言う事ですね、
その道を、自らが開き、残して下さって有るわけですからね、
その中でも、今朝頂きますのは、
師匠の有り方と言うのでしょうか、
求道姿勢と言うのでしょうか、
頂きますのは、
まさしく師匠はその求道精神の旺盛な方であられたと、
どうやったら人が助かる事が出来るだろうか、
どうやったら和賀心が頂けれるだろうか、
どうあったら、天の心、地の心、日月の心を
身に着ける事が出来るだろうか、
とその事を求め続けて居られた、と言う事ですね、
従って私どももやっぱり、習字の稽古をするなら、上手になろうと、
その上手になろうと言う意欲がなければなりませんね、
ただ、親から言われたから、墨をすって字を書いて居る、
と言うだけでは、ある程度は上達するかもしれませんけれども、
それ以上の上達が無い、そこには自ら上達しようと言う意欲が
欠けているからですね、信心意欲と言うのが、やはり大切ですね、
その中の特に今朝頂きますのは、師匠の信心姿勢の一つ、
本当からより真実を求めて、と言うのが有りますね、
常により真実を求めて居られた、
より助かる事の出来る道を求めて居られた、
今日の本当、そして明日のより真実、
と言う事でも有りましょうね、
これは即ち、ここまで信心が進んで、心がここまで大きくなった、
ここまで美しくなった、もうこれで良いと言う事ではない、
より大きな心を、より美しい心を求め続けて居られた、
和賀心になった、やれやれ、ではない、
より真実の和賀心を求めて居られた、
より真実の助かりを求め続けて居られた、と言う事でしょうね、
師匠はよく、信心には限りが無いね、
と口癖の様に仰って居られましたね、
私どもの中に、ですから、今日の、今の本当から、
もっとより真実のものは無いのだろうか、
それは、今の私の心の状態から、よりもっと大きな心の状態、
もっと美しい心の状態を身に着けようと求めて行く、その信心姿勢、
師匠のこの信心姿勢、信心意欲とでも言うのでしょうかね、
これを、先ずは私どもが見習い、身に着けさせて頂かねばならない、
本当からより真実を求める、その心意気と言うのでしょうかね、
その意欲を、先ずは頂かせて頂きたいものですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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