2023年1月2日月曜日

まけときまっしょの生き方 (2023-01-02)

 今日も和賀心学 (2023-01-02)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


神様に嫌われたら大変だ、神様には嫌われたくない。神様から嫌われるような事はしない方がよい。逆に、神様から好きになられるような生き方とはどう言う生き方だろうか。今朝は、それは、まけときまっしょの生き方だと。師匠が良く仰って居られた、もう一つ何かを添える心遣いが相手の心を惹きつける。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 303頁)


ビデオ: https://youtu.be/1cwe8hGqZ6Q

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-02.mp3


合掌

中原博信

-------------------------------------------------------


御理解 第37節




生きておる間は修行中じゃ、ちょうど、学者が年をとっても

眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ




今朝より、福岡の秋永由喜子さんがお参りして来て

「先日よりお夢を頂きました、北野町の中村のおばあちゃんが




御結界の前で寝て居られますから近づいて見ると、

死んでおられました




親先生がすぐに御神前に出られて御祈念をなさいますと、

生き返られピンピンする様になられた」というお届けでした




正しくこの秋永さんのお夢の様な状態が

中村さんの信心の上に起こっております




最近、お孫さんの病気で以前にも増した

若い者にも負けんような信心が出来て、




毎日、生き生きと参拝修行が出来ています

ここで思うことは、




折角生きて居る間が修行なら、

枯れたような修行でなく生きた修行をさせて頂き、




お徳につながる修行で一生を終わりたいものです

生きた修行とは喜びが伴うた修行を言うのです




喜びが伴うた修行と、

一生が修行だと、




師匠はある時に、その師匠はそれこそ様々な事が起こって来る

それら一切を、一切が修行だと頂いて来たと、




そしてその一切合切を修行だと頂いたその先に、

一切が神愛だと言う事が、本然と分からされた、




と言うのでしょうかね、

悟られたと言うのでしょうかね、




先ず、その一切神愛と言うものが、

ある時突然に、ああ神愛だ、ああこれも神様の愛だ、




なる程一切が神愛だな、と分かるものではない、

と言う事なのですね、




それこそ師匠は、

先ずそれこそ一切のものが修行だと、修行として頂く、




そしてその修行として頂いた暁に初めて、

一切が神愛だと分かる、分からされる、




と言うお話をして居られましたね、

一切が神愛、これを体得するその前には、




先ずは、一切が修行と言う事を

先ず行じ行わなければならないと言う事ですね、




ではその一切が修行、

どう言う修行かと言う事ですね、




それはやはり例えば形の、修行と言うと、

とかく形の上の、水の行や、火の行や、




それこそ断ち物の、塩断ちの行とか、

甘いものを断つ行とか、




色々そう言うもの、

いわゆる自分の身を苦しめると言うのでしょうかね、




自分にとって不都合な事、

それを修行としてさせて頂く、




言わば自分の嫌な事、避けたい事、嫌いな事、これをする、

それが修行だと言う認識が有りますね、




勿論、そう言う嫌いなものを好きになる、

と言った様な事であったり、




そう言う事も修行として、

神様が認めて下さるのかもしれませんね、




我流の自分が、これが修行だ、として選んだ修行、

それが自分だけのとこで収まっていたのでは意味が有りません、




神様がそれこそ、修行として、神様が認めて下さる修行、

神様が修行として受け取って下さる修行をさせて頂かねばならない、




と言う事なのですね、その修行にも 2つ有りますね、

神様が求められる修行、自らが求めてする修行、




その自ら求めてする修行でも、

神様がそれを、神様の方も、修行として認めて下さる、




そう言う修行でなければなりませんけれどもね、




先ずはその、神様が求められる修行、と言うものを、

先ずはさせて頂く事になるのではないでしょうかね、




ではその神様が求められる修行とは何か、

今朝頂きますのは、




それこそ昨夜寝ませて頂く時に、普通にお布団を着ますね、

ところが中々寝んでも暖まらない、




何か冷え冷えとして、中々暖まらないのです、

それでそのう、普通はあまり使わない膝掛けですね、




の様にして使っている薄い、布団とも言えないものが

有るのですけれども、それを 1枚加えてみました、




そしたら不思議とその薄い、こんな物がとても暖かくなるまい、

と思う様なそれを 1枚加えただけで、




全く違って来たのですね、

いわゆる暖かくなったのです、




この 1枚、こんな薄いのを加えるだけで、

こんなに暖かさが違うものか、と思う程しに暖かくなり、




ぐっすり寝まして頂く事が出来ました、

それで心中祈念の時に、その事を改めて教えて頂くのですね、




言わばその、何か一つ加えると言う事だと、

今までの状態から一つ加えさせて頂く、それが大切だと、




言う事ですね、師匠がよく、まけときまっしょう、

と言う様なお話をして下さいました、




その、まけときまっしょうの精神が大切だと、

その昔はよくお菓子屋さんと言うのか、




お店にお菓子を買いに行きますと、

量り売りでした、




ピーナッツなんかでも、

それこそコップ一杯と言った様な量り売りでした、




何でも量り売りが多かったですね、




そして例えばピーナッツを買いに行く、

そすと、コップ一杯入れて、紙袋に入れてくれる、




それまでなら、それまでなのですが、

それに加えて、またあと少しおまけをしてくれるわけですね、




それが嬉しかったですね、




その 100グラムなら、100グラムとお願いした所に

110グラム、あと 10グラムおまけをしてくれる、




それが嬉しかったですね、

よく、昔は角打ちと言うのが有ったそうですが、




お酒屋さんで、職人さんなどが帰りにコップ一杯飲まれる、

そしてコップに並々とお酒を注いでくれる、普通はそこまでですね、




ところがそこで、それこそ溢れそうだと言うので、

並々と注がれたお酒を一口すする、




そしたらその一口すすった後に、

もう少しまた一杯になるまで加えてくれる、




いわゆる、もう一寸まけてくれるわけですね、

その一寸まけてくれると言う、そこが嬉しいのだ、




楽しい有難いのだ、と言う事なのですね、




神様に例えば、大祓い信行なら大祓い信行、

そのいわゆる神前拝詞を10巻あげるとお約束した、




そしたら、あと一巻まけときまっしょう、

とさせて頂く、そのもう一寸加える、それが大切だと、




これは、神様から嫌われてはなりませんね、

神様から好かれる私どもで有りたい、




その神様から好かれる私どもである為には、

神様に対してその、まけときまっしょう、




これは人に対しても同じ様ですね、




人様に例えばプレゼントならプレゼントをあげる、

そこにもう一品何かを付ける、




普通ならそれで十分だと言う所でしょうけれども、

そこにもう一つ一寸した品物を付ける、




それが、人から好かれる一つの骨合でも有る様ですね

お店なら、お店で、何かもう一寸まけときまっしょう、




と言うその、まけときまっしょうと言う心が

人様に遣われたり、




あるいは神様に対してそう言う遣われ、遣い方をする、




これだけの修行と決められたら、その修行からもう一寸だけ、

それこそ、まけときまっしょう、と言うその心遣いですね、




そう言う心を遣う、これをまた一つの修行とさせて頂く、

と言う事を、今朝は教えて頂いたように思いますね、




心を遣う事、もう一つ一寸添える心を遣う、

その事を一つの修行とさせて頂く、と言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



0 件のコメント:

コメントを投稿