今日も和賀心学 (2023-01-20)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
師匠大坪総一郎師の存在意義の一つに、私も師匠の様な助かりを得たい、御用をさせて頂きたいと憧念心を抱かせる対象としての存在と言う事も有ると思う。ああ言う助かりを頂きたいと。今朝は、地の心とは自らの助かりを願う心、天の心とは人様の助かりを願う心と頂いた。師匠は正に天地日月の心の体現者だった。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 168頁)
ビデオ: https://youtu.be/xSWffTO-Ifk
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-20.mp3
合掌
中原博信
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御神訓
懐妊の時腹帯をするより 心に真の帯をせよ
胎教ということを申します
おなかの中で赤ん坊の教育をするのです
母親の心掛けを大切にすることが、
生まれてくる子供に関係すると教えています
教祖さまはこのことを
百年も前に教えておられます
尊い御徳をうけ、有難いお蔭を生みなし現わした人たちは、
皆この懐妊ともいうべき苦難を大切になされ、
真心一ぱいでうけ切り大事にした人達です
よいものを生みなす為には、まずは心に花をということです
心に花を、心にいつでも花を咲かせて居る事が出来たら、
これこそ助かりの世界と言えるのかもしれませんね、
しかしその助かりの世界へ導き入れると言う事は、
中々容易な事では有りませんね、
先ず第一に、馬の話で例えられますね、
馬を水飲み場と言うのか、水溜まりの所まで、
水が有る所まで連れて行く事は出来る
しかしその馬に水を飲ませる事は出来ない、難しい、
と言う事をお話されますね、
人の助かり、人が助かる、
これは人を助ける、と言う事では限界が有りますね、
それこそ馬を水が有る所までは連れて行く事は出来るけれども、
その馬に水を飲ませる事は出来ない、
馬自らが水を飲みたい、と欲しなければ、
飲ませる事は出来ないわけですね、
人を助けたい、と願っても、
そのまず人が助かる 3つのお話をさせて頂きましたが、
その先ず一つ目の、願う氏子におかげを授ける、
言わばおにぎりを欲しい人、お腹が空いている人に、
おにぎりを差し出す、そこまでしか出来ないのですね、
助ける、人を助けると言えば、
そこ位までしか出来ませんね、
そこから先に、言わばその馬が自ら水を飲んで、自ら助かる、
そのお米を自ら作り、ご飯の炊き方を覚える、
そして自らが助かる事が出来るようになる為には、
その人本人に、それこそそれ以上いわゆる真実の助かりを頂きたい、
どうしたら真実助かって行く事は出来るだろうか、
と、そこを求めていないならば、
そこを求める心が育たないならば、
お腹が空いた時におにぎりを貰えば良い、
無くなったら、また貰いに行けば良い、と言う程度で止まり、
自らが助かろう、自らの助かりの為に精進努力をさせて頂こう、
と言う心が育ってない人には、育たない人には、
助けようが無いと言うのか、
人が助かるお役に立つ、
その人が助かるお役に立つのは難しいですね、
馬をちょうど水飲み場まで連れて行く事は出来るけれども、
そこから先に、水を飲ませる事は出来ない、
のと同じ様な所が有りますね、
その人様が助かる為のお役に立つ、
と言う、その手前の所ですけれども、
神様のお役に立ちたい、と言う心が、
私どもの中に芽生えて来なければなりませんけれども、
その神様のお役に立つ、
どうあったら神様のお役に立てるか、
教祖様は、天地日月の心になること肝要なり、
と教えて下さいます、
そして師匠は、天の心とは、地の心とは、日月の心とは、
と教えて下さいます、
地の心とは、土の心、受けて受けて受け貫く心、
天の心とは、与えて与えてやまぬ美わしの心、
日月の心とは、実意丁寧な心、
今朝頂きますのは、
その地の心とは、自らの助かりを願う心、
自らの真実の助かりを願う心、
天の心とは、人様の助かりを願う心、
だと頂きました、
土の心が身に着く、それこそ成行きを受けて受けて受け貫く、
と言うその心は、成行きを受ける、その為には、
いわゆる自らのああありたい、こうありたい、
ああしたい、こうしたいと言った様な、
その我情我欲を外さなければ、
とても真実の意味においての土の心にはなれませんね、
神様の願いが成就する為に、私の思いは捨て去る、
と言う事がなければ、
その受けて受けて受け貫く土の心は、
とても身に着きません、
いわゆる自分の、自らの真実の助かり、
そこに繋がる我情我欲を捨て去る、
そして土の心で受ける、
と言う事に繋がりませんね、
我情我欲を外さなければ、
またそれを外して下さるのが、成行きでの稽古であり、
そこに真実の、自らの真実の助かりへの入口と言うのか、
導かれると言う事になりますね、
それは、自らの真実の助かりを願わない限り、
出来ない話ですね、
土の心を身に着ける、
我情我欲を放さなければ、土の心は身に着きません、
そしてその土の心、言わば地の心が身に着いたとして、
自らの助かりの世界に入れたと致しましょうか、
そしてそこから更に、与えて与えてやまぬ美わしの心、
これこそ、人が喜びさえすれば、人が助かりさえすれば、
と言う、人の助かる、人が助かる為に寄与しよう、
人が助かる為にお役に立たせて頂こう、
と言う心ですね、先ずは、土の心、地のの心で 8合目、
そして後の 2合は天の心で、と師匠は教えて下さいます、
言わば、自らの助かりを願う信心で 8合目まで行く、
そして後の 2合は、人の助かりを願う信心、と言う事になりますね、
そこに初めて、
天地の心が十全に身に着く事になる、と言うのでしょう
この天の心、これもまた自分の助かりの為にも役に立ちますね、
言わば、成行きが、受け切らない成行きが来る、
そこを我情我欲を捨てて、土の心で受け貫こうとする、
それでもまだ受け切らない、
そこに天の心、よしこの事を受ける事によって、人が助かるように、
人が助かる為の修行として、この成行きを頂いて行こう、
勿論、そこには既に我情我欲は捨てられているわけですけれども、
それでも受けられない、と言う所が有りますね、
それは、人が助かる為に、その為の修行として、
この事を受けさせて頂きます、
と言わば、天の心をもって、
その成行きを受け貫く、と言う事になりますね、
そしてそれらの行が、
日月の心をもってなされる、と言う事ですね、
そこに初めて、天地日月の心が完成すると言うのか、
成就すると言う事になるのでしょう、
そしてそこに初めて、神の心を心とする、
真実の意味においての人が助かる、そのお役に立つ、
その一つの見本とも手本ともなる、
と言う事になるのではないでしょうかね、
その方が正しく、師匠大坪総一郎師であられたと、
その師匠の姿を見て、私どもも、ああ言うおかげを頂きたい、
ああ言う助かりの世界に住みたい、
と言う発心を立てる事が出来る、立てる、
そこに師匠の存在意義が有る、
とも言えるのかもしれませんね、
やはりそこに良いものを見る、本当のものを見る、
そしてその本当のものに、私どももなりたいと願う、
言わば真実の助かりを頂きたい、
本当に神様のお役に立ちたい、と言う思いも、
それは師匠の姿を見て初めて、
そう言う心も湧いて来るのだと思いますね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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