今日も和賀心学 (2023-01-08)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
教祖様は信心は本心の玉を磨くものと、師匠大坪総一郎師はこの世には魂を清め磨きに来たと教えて下さる、心を育てる事だとも。聴けば何となく分かる、しかしどうやって魂を清め磨くのか、心を育てるのかが分からない。今朝は、魂を磨くと言う事は成行きを通して天地日月の心を身に着けることだと頂いた。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 188頁)
ビデオ: https://youtu.be/5NHW-GiHNu4
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/01-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-01-08.mp3
合掌
中原博信
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御神訓
神は声もなし 形も見えず 疑わば限りなし
恐るべし 疑いを去れよ
信うすき者に対しては神の権威にかけても
おかげ(御利益)をもって見せて下さるが、
信心をわからせて下さる為には、
様々なところを通らせて下さるもの
どんなところを通らせて頂いても迷うことなく折るることなく
信心を進めてゆけば、そこからお徳が受けられる
神さまは有難い方じゃとわかると
同時に又、こわい方じゃと知れ
様々な所を通らせて下さる、
と有ります
では何の為に様々な所を通るのか、
と言う事になりますね
よく、私どもは何の為にこの世に生を受けたのだろうか、
何の為に生きて居るのか、あるいは生かされて居るのか、
と言う事が疑問になる事が有ります、
特に若い頃ですね、
それが段々仕事に追われると言うのか、家事に追われる、
稼ぐ事に追われる、生きる事に追われると言うのでしょうかね、
そうなると段々、その純粋な思いと言うのか、
何の為に私はあるのだろうか、存在するのだろうか、
何の為にこの世に生を受けたのだろうか、
と言うその素朴な疑問が段々薄らいでしまう、
と言うのでしょうかね、
どこかへ行ってしまう様な事にもなりますね、
そして日々の生活に追われて、明け暮れる、
と言う事になるわけですけれども、
そこを、信心をすると言う事によって、また再び、
その私どもの、何故この世に生を受けたのか、
何の為に生かされて居るのか、
と言うその原点に戻る事が出来る
これはやはり信心によるものだと思いますね、
尤も信心と言いましても、御利益を追うだけの信心、
と言うのも有りますけれども、
その御利益を求めてだけの信心では、
そこには行き着かないと思いますけれども、
やはりその中に、御教えを頂く事によって、
なる程私はこの事の為に生を受けたのか、
人生はこの事が、この事を目的とせねばならないのか、
と言うものを分からされたり致しますね、
その中でもやはり、最たるものと言うんでしょうかね、
これは色々な表現が有るのでしょうけれども、
やはり教祖様も、信心は本心の玉を磨くものぞや、
と教えて居られます、
これは、信心は本心の玉を磨くものぞやと、
信心は、と仰って居られる様ですけれども、
これは、人生は、と言う事だと思いますね、
信心、即ち、それこそ一生を通してするもの、
それは私どもの一生、私どもの人生、
師匠が、信心が命です、と言う所まで進まなければいけないよと、
心が育たなければいけないよと、
ただアクセサリー的に信心をしておるとか、
それこそご利益を頂く為に信心をしておる、
神様を便利屋さんの様に使う、と言うのでしょうかね
信心を便利な道具として、便利屋さんの様にして使う、
と言う信心ではなく、それこそ信心をする事の為に、
この世に生を受けた、と言う様な所まで高められなければならない、
信心は私の命です、と思える、言える所まで、
高めなければならない、深めなければならない、
ではその、信心は命ですとなった時に、それは人生です、
と言う事になりますね、信心は私の人生です、
それこそ一生をかけて、人生をかけてこの信心に打ち込む、
そしてそのどこに打ち込むのか、
信心は本心の玉を磨くものぞやと、つまり、私ども一生をかけて、
その魂を磨くと言う事に打ち込む、と言う事になりますね、
この世には魂を磨きに来たのである、
と師匠は教えて下さいます、
その、ではどうやって、どう言う魂を磨くものかと、
ただ、本心の玉を磨くとか、魂を磨くと言われても、
何となくは分かりますね、
ああそうなのかなと、
信心と言うのは、あるいはこの世に生を受けたと言う事は、
自らの魂を清める為に、この世に生を受けたのだなと、
何となくは分かりますけれども、
ではその具体的にどうやって魂を磨くのか、
具体的にどうやって本心の玉を磨くのか、と言う事になると、
今一つはっきりしない所が有りますね、
そこを教祖様は、天地日月の心になること肝要なり、
と教えて居られますね、
師匠大坪総一郎師は、それこそ、
神様から色々な所を通らされたと、仰って居られます、
そしてその色々な所を通らせて頂いて、
結局何の為に通らせて頂いたか、
それは、その色々な所を通らせて頂いて、
ここは天の心を、ここは地の心を、ここは日月の心を、
とその天地日月の心を身に着ける、
心を開拓すると言うのでしょうかね、
育む、育てる、
色々な表現は有るのでしょうけれども、
その天地日月の心を、
神様が、耕して下さったと言うのでしょうかね、
稽古をさせて下さったと、
仰って居られましたね、
結局、その魂を磨くと言う事を、
より具体的に表現するならば、天地日月の心になる事だと、
その天地日月の心を稽古をする、その心を身に着ける、
と言う事が、本心の玉を磨くと言う事であり、
私どもの魂を清める、あるいは心を育てる、
どう言う心を育てるのか、
それは、天の心を、地の心を、日月の心を育てるのだと、
言う事になりますね、
与えて与えてやまぬ美わしの心、受けて受けて受け貫く土の心、
そして正確無比な実意丁寧な日月の心、
この天の心、地の心、日月の心を、
日々の様々な成行きの中で稽古させて頂く、
1回出来たからと言って、身に着くわけでは有りませんね
また次の問題が起こって来る、
そうすると、また心がイライラモヤモヤしたり、
クウッとなったりする、
そこでまた、よしここを天の心で、地の心で、
日月の心でと精進させて頂く、その繰り返しですね、
フグの毒も水洗いで流すそうですけれども、
それも繰り返し、繰り返し、繰り返しの水洗いで流すそうですね、
私どもの心の中に有る毒と言うものも、
繰り返し、繰り返しの稽古によって初めて、洗い流され、
愈々、天の心、地の心、日月の心が磨かれる、
と言うのでしょうかね、
隠れていたものが現れて来る、
と言う事かもしれませんね、身に着いて来る、
今朝頂きますのは、
魂を磨くと言う事、それは具体的には天地日月の心を身に着ける、
その精進をさせて頂く事だ、と言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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